そもそもの始まり
あいつは覚えているだろうか。あのときのことを。
その日はクリスマスだった。街はイルミネーションで彩られ、江戸中、いや日本中に住んでいる人々のほとんどが浮かれていた。しかし私は、そんな忙しいはずの夜に、似つかわしくない場所にいた。
正直、けっこう後悔していた。……だって、山って思ったよりも寒かったんだもの。
私がここに来た理由はふたつ。ひとつは、星が見たかったから。もうひとつは、とにかく、静かな場所に逃げ込みたかったから。
その日は、いやなことがいくつもあった。でも、同僚からの悪口をたまたま聞いてしまったことも、後輩のミスを全部自分のせいにされたことも、上司にセクハラされたことだって、光の散らばる大海原をみていると、小さなことに思えてくるから不思議だ。
小さい頃から、星は好きだった。誰も自分を受け入れてくれなくても、星だけは自分の味方でいてくれるような気がしたから。
気の利いた言葉なんて、言ってくれないけれど。それでも、ただそこにあるだけの星空が、私には心地よかった。
さざっ、と、草木をかきわけるような音がしたのは、そのときだ。
その音は確実にこちらへと近づいてくる。ばさり、と、枝の間から手のようなものが出てきて、私は思わず身震いした。その影を見たとき、最初は、熊かと思ったから。だから、「おりょ?」という声が聞こえたとき、どんなに安心したことか。
「なんじゃー、うさぎかと思うたら、女の子じゃ」
……わけわかんない方言しゃべってたけど。
驚きと安堵で言葉の出ない私に構わず、奴は隣に座ってきた。なおも口をぱくぱくと開閉している私を見て、奴は吹き出す。
「すまんすまん。こげに驚くと思うてなかったんじゃ」
「な、あ、あんたっ、誰よ」
「誰……そうじゃな。『快援隊』ちゅー会社、聞いたことないかの」
――聞き覚えも何も、うちの大切な取引先だ。
営業じゃないから詳しい人事とかは知らないけれど、一般人でもよく聞くような、大きな会社。なんでもこいつは、そこの社員だったらしい。
思わず恐縮して「お世話になってます」と頭を下げて名刺を渡すと、「わし、今持ってないんじゃが……」と申し訳なさそうな顔をした。
「大丈夫ですよ、私が渡したかっただけですから。今はプライベートです」
「なら、受け取っとくかの。……おまん」
「はい?」
「かたっくるしいのはなしじゃ。プライベート、じゃきにの」
その言葉に私は、先ほどまでの口調に戻した。
改めて相手を観察してみる。暗くてよくは見えないけれど、もじゃもじゃ頭は認識できた。ゆるーい着流しの上に、コートを羽織っている。暗めの色に見えるけれど、定かではない。顔は……うん、そこそこじゃないかな。ごめんなさい嘘つきました。けっこうかっこいいです。
急に現れた人物を目の前に、こんなイケメンと知り会えたなら、クリスマスも悪くないじゃん、と思い直した。
「そうじゃおまん、こげなとこで何しゆうがじゃ」
「それ、こっちのセリフだからね。……あんたは」
「わしゃー、久々に休みが取れたきにの、こうして星見に来たんじゃ」
やはり王手貿易会社は忙しいのだろう、こんな日じゃないと休みが取れないなんて。中には社長と一緒に宇宙を飛び回って、地球にすらまともに帰れない人もいると聞いた。もしかしたら、この人もそうなのかもしれない。
「しっかし、驚いたぜよ。ここはわししか知らんと思うとった」
「あ、いや。ここまで来たのは初めてよ」
「ならどういてじゃ、わざわざこげな日に」
痛いところを、ついてくる。
その後も見事、口車に乗せられる乗せられる。気づいた頃には、洗いざらい、今日あったことをすべて話し終えていた。
「……ひどいっちゅー話は、たびたび聞いとったけんど」
「あら、噂になってんの?」
「ここまで酷いとは、思うとらんかったのぅ」
彼は少し考える素振りをして、小さくうなずいた。
「じゃが、おまんは頑張っとる。もうじき、きっといいことが起こるじゃろ」
「そんな、うまくいくかなあ」
「大丈夫じゃ。万事うまくいく。たまには、流れに身を任せるのも、大切じゃきにの」
そんなものなのだろうか。
言葉を鵜呑みにしたわけじゃないけれど、なぜかこの人が言うと本当っぽく聞こえてくるから不思議だ。
「うまく、いくかなあ」
そうつぶやけば、上空で星が一度、きらりと光った。
土日を挟んで、月曜日。もうクリスマスの雰囲気なんて微塵も残っていない街を歩いて、今日も足取り重く出社する。
それにしても、日本人の切り替えの速さはほんとうにすごいと思う。26日にはもう正月飾りが並び、おせちの予約が始まる。毎度ながら思うのだけれど、よく一晩で衣替えできるものだ。
そういえばおせち、来年はどうしようかな。どうせ今年も一人だけだし、買ってしまったほうが楽なのかもしれない。……そう考えると、今までしっかり作ってきた自分に申し訳ないような気にもなるのだけれど。
ぼうっとしてても染みついた習慣は抜けないもので、いつも通り始業30分前に到着した。
すると、いつもはのんびりしている営業さんたちが、どういうわけか、わさわさと忙しそうにしている。近くにいた同期に聞いてみれば、朝一の会議で変更があったとのこと。快援隊の重役さんたちとの合同会議だったはずが、ひとり来れないとのことで、なぜか社長が来ることになったらしい。
たまにあることらしく、「あの社長のバイタリティには頭が下がるよ」と同期も零していた。「おかげでこっちは対応に追われるんだけど」と、ついでに愚痴も零していった。
そんなに重役と社長とでは待遇に差があるのか、と思う私は、まだまだ世間知らずなのだろうか。
星の綺麗な日に出会った快援隊の彼とは、あれ以来全く連絡を取っていない。もしかしたら、仕事をしているうちにまた会うかもしれない……なんて、そこまで夢は見ないけれど。せめてどこかで、もう一度会いたいという思いは捨てきれずにいる。
やがて始業時刻になった私は、いつもの作業に追われて、快援隊のことなどは頭からすっぽりと抜けていた。
昼休みの時刻、キリのいい所まで仕上げてしまおうとパソコンを睨んでいると、とんとん、と肩を叩かれた。
はい、と振りむけば、サングラスをかけた、重役というには少し若そうな男の人。誰だろうと一瞬思ったが、もじゃもじゃ頭に見覚えがあった。
「久しぶりじゃのう」
「やっ、びっくりしたー。と言いますか、先一昨日ぶりじゃないですか」
「それもそうじゃ」
話を聞く限り、この人も会議に出席していたらしい。……もしかして、すごい人とお知り合いになっちゃったのかしら。
そんな私の心内はいざ知らず、そういえば名前を聞きそびれたこの人は、私を昼食に誘ってきた。先ほどまでの仕事熱心さはどこへやら、二つ返事でOKして、すぐさまパソコンをスリープさせた。
「ところで、これはプライベートですか、それとも……?」
「半々、っちゅーところじゃ」
「えっ」
「どこがええかの? わしは近くの定食屋が好きなんじゃが」
「……お任せします」
「あっはっは、敬語はいらんぜよ」
ゆっくりと席を立つ。異様な視線が注がれていることに、私はそこで初めて気付いた。
定食屋は、なんと会社の目と鼻の先だった。こんなところがあるなんて、今日まで知らなかった。
日替わり定食をふたつ頼んだところで、この人は口を開いた。
「さっそくじゃが、おまん、わしの名前知らんじゃろ」
わざと言わなかったんじゃ。と、目の前に座ったこの人は言う。
「な、なんで」
「バレると思っちょったからのー。……坂本辰馬、これが本名じゃ」
言葉が出なかった。
そりゃあそうだ、その名前は紛れもなく、よく知られた快援隊社長の名前だったから。
「……えええええ」
しばらくしてようやく出せた声は、芯がなく、ふぬけていた。そのタイミングを見ていたかのように、日替わり定食です、と、おばちゃんが御膳を持ってきてくれる。
「あれ、社員とか言ってなかったっけ」
「社長も社員のひとりじゃ」
「え、でも何で黙ってたのよ」
とりあえず、呑み込んだ。その上で今更気にしないことにした私は、遠慮なく敬語を外させてもらう。ぱきん、と箸を割り、とりあえずいただきますをした。
「ひとつは、おまんとは対等に話したかったからじゃ。肩書きのせいか、なかなか近寄りがたいようでの、やき、普通に話がしたかったんじゃ。……もうひとつは」
ぐい、と、坂本さんはサングラスを押し上げる。
「おまんを見込んで、引き抜きたいと思うたからじゃ」
……さすがに、この年で難聴は嫌だ。でも、こればっかりは、疑わざるを得ない。
「……はい?」
「わしの会社に入ってくれんかのう」
今度は直接的に言われた。
まてまて落ち着け。お味噌汁を飲んでみる、坂本さんのお気に入りなだけあって美味しい。宇宙にいると、やっぱり日本食が恋しくなるのかな、なんて思ったり。え、ってことはまさか、私までそんな身になるってわけ?
冷静に考えてみると、こんなので落ち着けるはずがなかった。
「待って。何でまた、私なの」
「わしが気に入ったからじゃ」
議論を挟む余地のない職権乱用だった。
「だめじゃないですか」
「心配無用じゃ、みなの同意はもらっちょる」
「だからって――」
「言うたじゃろう。『万事うまくいく』ぜよ」
選ぶ権利は、おまんにある。じゃが、わしは是非とも、おまんにうちへ来て欲しい。
……そんなことを言われたら、行きたくなってしまう。
そのあとは、気が向いたら連絡が欲しいとだけ言われて、美味しい定食をゆっくり味わった。
それにしても、こんな穴場、知らなかった。今日のおかずはほっけで、なんと大きな干物がまるまると乗っている。他にも漬物やサラダ、デザートまでついて、これでワンコイン。ちょっと安すぎないだろうか。私までお気に入りになってしまいそうだ。
あらかた食べ終わり、お昼休みもあと20分というとき。坂本さんの携帯が鳴って、電話だったらしく、一言ことわってから出ていった。一人でいると少し寂しいな、と思っていると、大きな笠をかぶった人物が暖簾をくぐった。そこまでは特に気にしていなかったのだが、その後が問題だった。白い身体に黄色いくちばし、ぱっちりおめめ。こいつを連れてる人なんて、私は一人しか知らない。
「あれ、桂さん」
「……む、菅崎どの」
「わー、お久しぶりです」
桂さんは元ご近所さんで、攘夷浪士をしている。いわゆるエリートニート。
「菅崎どのも食事か。しかしよくここを知っていたな、ここは美味い上に安いから俺もよく来る」
「はい、しっかり堪能しましたよ。ここのことは今日知ったんです。ある人に教えて頂いて」
「ほう、そうかそうか。いや嬉しいぞ。ところで、その教えてもらったというのは、どのようなお人なのだ?」
桂さんはちらりと向かいの席に残ったデザートを見て言った。
「今、電話に出てるみたいです。坂本さんっていって、大きな会社の社長さんです」
「さかもと……? まさか、鳥の巣のような頭をしていないだろうな」
鳥の巣、に吹きそうになるも、ぐっとこらえる。
「え、はい、そうですよ。お知り合いですか?」
「知り合いも何も――」
がらっ、と、ふたたび扉が開く。坂本さんが戻ってきたのだ。彼を見るなり桂さんは、坂本さんへ呼びかけた。
「坂本! 久しいではないか」
「おりょ、ヅラじゃなかかー! あっはっは、こりゃめでたい。こげなとこで会うとはのう」
「ヅラじゃない桂だ」
肩を組んだ坂本さんを、軽い動作で退けた桂さん。さすがは紳士。たまに "エセ" がつくけど。
「……それより、今さっき彼女と再会したところでな。まさかとは思ったが、やはりお前だったか」
「なんじゃ、おまんの知り合いじゃったんか!」
というかあの、お二人さん。その話題にしている私のこと、忘れてません……?
「ちょうど今、わしの会社に引き抜こうとしゆうがじゃ」
「ほう、引き抜きか。俺は賛成だな、菅崎どのの話を聞く限り、あまり良い印象は受けない。だが以前、攘夷浪士に誘ったのだが、断られてしまってな」
あの。
「この子とは最近知り合ったんじゃが、わしも会社のことば聞いてのー。前々から怪しいとは思っちょったが、どうも後ろ暗いことまでしちょるらしい」
「何? それは聞き捨てならないな」
「やき、そろそろ取り込むか手を切るか、考えちゅうところじゃ」
……あのー?
その後も加熱するトークに私は呆れて、お代を置いて会社に戻った。
席につく頃には昼休みも残りわずかだったけれど、仲のいい同僚の千代ちゃんを筆頭に質問攻めされて、部長が睨みをきかせてくれるまで答え続けるはめになった。
それからまもなく、私は会社を退職することにした。千代ちゃんとか、仲良くしてくれる子たちには申し訳なかったのだけれど、職場環境は私にも選ぶ権利がある、と思い直してのことだった。快援隊への入社は4月になるので、しっかり退職金ももらっておいた。
正月は結局暇になったので、おせちは今年も自分で作った。勢い余って作りすぎたけど。住所を教えていない坂本さんからは年賀メールが来た。ついでに聞くと、ちょうど今地球にいるとのことだったから、おせちを半分ほどもらってもらった。そのときに初めて住所は知られた。
それから二ヶ月ほどは、快援隊について少し調べたり、入社手続きやらをして過ごした。他に特記すべき点がないということは、つまりは暇だったということだ。3月に入ってから、そういえば親に連絡してなかったなと思い出し、一応しておいた。
そしてようやく、4月が始まり、内示を頂いた。
私は新しく傘下になったという、とある会社の指導役ということだった。私にそんな大役務まるのかしらと不安にもなったが、その会社の住所を見て、なるほど納得がいった。なぜなら、その会社のことを私はよく知っていたからだ。――まさか、元自分の会社で、人を使う側に立つとは思ってもみなかった。
セクハラ課長や陰口ばかりの元同僚の驚いた顔は、今思い出しても笑えてくる。もちろん、異様なくらい真っ当に接して、逆にビビらせてあげましたとも。
さて、あれから巡り巡って、今現在。そろそろ冬の足音が聞こえてきそうな、落ち葉の舞う江戸の町。空にはもう藍色がさしかかっていた。そろそろ、夕飯の支度をしなきゃ間に合わないかもしれない。
ぼうっとしていたせいで1ページも進んでいない本を閉じ、私は立ち上がる。エプロンを身につけながら、今日はがんばらなきゃ、と自分を励ました。
ふだんは一人だから、久々の料理にちょっぴり緊張している。でも、楽しみの方が大きい。
だって、今日は11月15日だもの。
今日が土曜日に当たってくれたことを感謝しつつ、あいつの好物のレシピを早速頭に思い浮かべた。