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死ネタ(夢オチ)

霧が晴れる

 暗闇の中で手元を探る。そこにあるはずのイノセンスが無くて、ああ、 "ダメ" だったんだなと悟った。  すると突然、叫ぶような声が聞こえて、わたしの上半身が少し浮いた。 「コハク、コハク……!」  大きな手に肩を揺さぶられて、まぶたを開ける。なんだか白っぽい視界に、ぼんやりとした人影が見えた。ああ、あの人だ。いとしい、いとしい、わたしの彼だ。そう確信したとたん、胸がぎゅうっと苦しくなった。今すぐ抱きしめたいけれど、腕が言うことを聞かない。そうだ、わたしは倒れていて、もうすぐ死ぬ。 「頼む、置いていかないでくれ……!」  ごめんね。ありがとう。そう言いたかったのに、口が開く代わりに、再びまぶたが閉じてしまった。――そして、もう一度まぶたを開けると、見慣れたシーツがそこにあった。  なんだかすごい夢を見てしまった。寝返りを打って伸びをすると、任務帰りの体がボキボキ音を立てた。だんだん頭がはっきりしてくる。  実際のわたしには、恋人もいなければ想う人もいない。それに「置いていかないでくれ」なんて言われても、わたしだってエクソシストの端くれだ。死ぬときは死ぬ。それは仕方ないというか、とっくに覚悟している。……なのに夢というのは不思議なもので、あのわたしは確かに自分だった。あのとき苦しくなった胸は、未だにぎゅうぎゅうと締め付けられていた。  わたしのイノセンスは今メンテナンス中で、手元にないのは当たり前だった。大きな傷はないけれど、少し荒っぽい使い方をしてしまったので、念のために。こんな夢を見たのもきっとイノセンスが近くにないからだろう、と結論付けたわたしは、手早く支度を済ませて科学班へ向かうことにした。
「リーバー班長」 「なんだー?」  すごい勢いでペンを動かしているリーバー班長は、振り向きもせずに返事をした。紙には何やら難しい数式らしきものが並んでいる。少しして声の主がわたしだと気づいたらしく、ほんの一瞬だけ目を上げてくれた。 「ああコハクか、ちゃんと仕上がってるよ。ちょっと待っててくれ」 「はーい」  わたしは適当な椅子を拝借してリーバー班長の向かい側に座った。  やることもないので、目の前の彼を観察してみる。顔色は良いみたいだけれど、ヒゲがほんのり伸びている。やっぱり忙しいのだろうか。少し痩せたような気もするけれど、袖のまくられた腕は相変わらずがっしりしていた。インクで汚れた指先からガリガリと生み出される数式たちはきちんと整列されていて、リーバー班長の人柄がにじみ出ている。彼の顔に目を戻すと、こちらを向くことのない瞳が一点を見つめていた。その姿がいつもよりカッコよく見えて、頬が勝手に緩んでしまう。ファンクラブができるのも頷けるなぁと一人で勝手に納得した。  ちょっと、と言ったわりにはたっぷり20分ほど使って、リーバー班長はペンを置いた。 「コハク、お待たせ」 「ほんとだよ」  まあ退屈はしてなかったけど。  リーバー班長は頬をかいて「ははは……」と気まずそうにした。これは自覚があるやつだ、許してあげよう。  預けたイノセンスは、ぴかぴかになって帰ってきた。細かい傷も磨き上げられている。手にしっくりと馴染んで、あるべき場所に戻ってきたという安心感があった。 「うん、バッチリ」 「そりゃ良かった。けど悪いな、来てもらって。手が空いたらこっちから行ったのに」 「あー……ちょっと夢見が悪くてね」 「夢?」  今朝見た夢のことを掻い摘んで話すと、リーバー班長は眉間にシワを寄せた。困らせて、というか、心配させてしまっただろうか。そんな顔をさせたかったわけじゃないので、わたしはわざと明るく続ける。 「エクソシストなんていつ死ぬか分からないのに、そんなこと言われてもねぇ」 「……」 「なあに、班長が気にすることじゃないでしょ」 「いや……」  リーバー班長は少し言葉を迷わせてから、うん、と頷いた。 「やっぱり、オレだったら嫌だよ。お前たちエクソシストがとっくに覚悟の上だってのは分かってるし、尊重したい気持ちもある。けど、オレはどうしてもその男の方に感情移入しちまうな」  リーバー班長の左手はぎゅっと握られていて、あのとき――夢の中で抱えられた大きな手を思い出してしまった。肩を揺さぶられた感覚が、蘇ってくる。 「死ぬかもしれない……って、頭では分かってても、気持ちは追いつかないだろ」  ああ、この人だったのかもしれない。  リーバー班長の言葉を聞いて、直感した。髪の色も違った気がするし、ヒゲも生えてなかったような気がするけれど。でもきっと、あのときの彼は、この人だったのだ。そうだったらいいなと、思ってしまった。  あーあ、気づきたくなかったな。気づいちゃったな。気づくにしても、もっと後でよかったのにな。淡い想いの芽生えを自覚してしまって、なんだか笑いが込み上げてきた。 「ふふ」 「なんだよ、笑うとこじゃないだろ」  文句を言いつつも、リーバー班長の眉間からシワが消えた。だからわたしも、あのとき彼に言えなかった言葉を笑顔で口にした。 「ありがとう、リーバー班長」
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