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角砂糖

 仮眠後の一杯は紅茶に限る。というわけで、フラスコの並ぶ給湯スペースへと重い足を運んだ、のだが。地味な色合いであるべきはずのそこには、色とりどりの液体が所狭しと並んでいた。 「……なにこれ」 「おっ、コハク! お前も来いよ!」  声のした方へ顔だけ向けると、小さな人だかりがあった。その中心には、目をらんらんと輝かせた同僚が。  ――なるほど、またなんか要らんもん作ったな。  納得と同時に、呆れて力が抜けてしまった。しかし未知への興味に足取りが軽くなるのだから、やはりわたしも科学者だ。  覗いてみると、囲まれていたのは何の変哲もないティーバッグだった。それを各々、マグカップに入れて飲んでいる。それだけ。 「まあコハクもやってみろよ」  首を傾げていると、水差しを手にした同僚が、勝手に私のマグカップに水を注いだ。  促されるままティーバッグをつまみ、水の中に落とす。薄い布がすうっと沈んで、ゆっくりと底に着地した。……変わった様子は、ない。というか何も変化がない。てっきり給湯スペースのようにカラフルになるのかと思ったのだが、色も透明なままだ。スプーンでくるくると混ぜてみても、中の茶葉が浮かぶだけだった。 「……何もないけど」 「え?」  マグカップを見せると、同僚は「ああ」とつぶやいた。 「カップ洗った?」 「そりゃまあ」 「じゃあ、そのまま飲んでみて」  いやいや、何の説明もないまま怪しい液体を飲めと。  さすがに警戒して、ちらりと周りを伺った。他の同僚たちはウサミミも生えてないしゴリラにもなってない。少なくとも命に別状はなさそうだ。  少しためらって、でもやっぱり好奇心に負けてしまった。恐る恐る口に含むと――ぱっ、と爽やかな甘味が広がった。この風味は、そう、私の大好きな蜂蜜入りの紅茶だ。 「えっ」  驚いて、マグカップを再び覗き込む。先程まで透明だった液体は、夏の空を映したかのような色に変化していた。 「美味しいだろ」 「何これ」 「ふっふっふ、唾液と反応して必要な栄養分が溶け出すティーバッグだ。水でも溶けるからいつでもどこでも使える! いいだろ」  いや栄養分ってレベルじゃないぞこれ。まさに私が飲みたかったものだ。  詳しく聞いてみると、そちらは偶然による副産物だったらしい。自分好みの味や色に勝手に変化してくれるのだとか。確かに、好きでもない栄養ドリンクを飲むよりずっと良い。……副産物のほうが大発明なんじゃないの、と思わないでもないけれど。本人が満足そうなので問題ないだろう。  それにしても、本当に少量の唾液で反応するらしい。ちょっと飲んだだけなのに、カップの中は綺麗に染まってしまっていた。ゆらゆらと揺らせば、海を上から眺めているような感覚になる。見ているだけでも癒やされそうだ。  ――と、そのとき、脳内で何かがチカッと光った。そういえばこの絶妙な色合い、見覚えがある、ような。何だっただろうか。  ううん、と考え始めたところで、上から降ってきた声に思考が中断された。 「今度は何作ったんだ?」 「あっ、リーバー班長」  見上げると、思ったより近くに彼の顔があった。  ……びっくりした。固まってしまった表情を、そのまま動かさないように、跳ねた心臓を落ち着ける。ああもう、だから職場ではあまり近づいて欲しくないのに。困るのだ、主に私が。  それとなく視線を外すと、彼もマグカップを持っていた。……となれば、やることは1つじゃないか。 「班長もどうですか?」  照れ隠しついでに、笑顔で水差しを渡してみる。ちょっぴり悪戯心も含んで。それを彼は意外にも素直に受け取ってくれた。 「怪しいもんじゃないだろうな」 「ヤバいやつだったら今頃みんなどうにかなってるでしょ」 「……それもそうか」  さてさて、リーバー班長はどんな色に染まるかな。  水を注いだマグカップに、ティーバッグが沈められる。軽くスプーンで動かせば、たちまち落ち着いたブラウンに染まった。コーヒーよりも明るくて、でもどこか弾んだような色合いだ。 「あら、かわいい色」 「何か意味があるのか?」 「自分好みの色や味に変わるらしいですよ」 「……ほー」  リーバー班長、なんだか頬が緩んでいる。どうやら心当たりがあるらしい。彼はひとくち飲むと、堪えきれないといった様子でくつくつと笑った。 「なるほど」 「どうでした?」 「コハクの淹れてくれた紅茶の味がする。蜂蜜入ってるやつ」  ――うわ。  思わぬところで不意打ちを食らって、今度こそ赤い頬が隠しきれない。照れ屋なくせに、こういうことはさらっと言うのだ、私の恋人は。  このままでは危ない、仕事モードが崩れてしまう。内心慌てながら、適当に口を動かした。 「そ、そういえば、班長って茶色が好きなんですね。意外でした」 「ああ、好きだよ。綺麗な、お前の瞳の色だ」  話題を逸らしたかったのに追い打ちをかけられた。  もうだめだ。逃げるように目線を下に向けると、私のマグカップがそこにあった。そして、トドメを自分で刺してしまった。  だって、それは彼の瞳の色だったのだから。
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