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白と混じれど色絶えぬ

「記憶喪失前と、同じようにってこと?」 「ああ」  真剣な表情で頷く彼は、今朝ひょんなことから記憶喪失になった配偶者ことリーバー・ウェンハム。まあ科学班のいつものアレなんだけど。  犯人(製作者)によると、記憶の一部をピンポイントに消す薬の実験段階で、今回は好きな人を忘れる薬だったようだ。薬そのものではなく煙を吸入しただけだったから、放っておいても長くて3日で戻るらしい。というか、そうだと分かってなかったらこんなに落ち着いてない。正直、目を覚ました彼に「わっ、すみません」と他人のような口調で言われたときには全身が凍った。もちろんそのあと犯人の胸ぐらを掴んでガンを飛ばした。  まあ過去のことはどうでもいい。今は、部屋をどうするかという話をしていたのだ。業務を終えて部屋に戻ってから、そういえば、と気づいて焦った。結婚してからは、同部屋にしてしまっていたのだ。  私は構わないけど、さすがにリーバーさんは知らない女とベッドが同じとか嫌がるんじゃないか。そういうことを、それとなく伝えてみた。けれどリーバーさんは即答した。今までと同じように振る舞ってくれ、と。部屋だけでなく、全部を、だ。こういうときのリーバーさんは、わたしが何を言っても納得してくれない。 「まあ、リーヴィがそう言うならいいけどさぁ」  諦めて早速愛称で呼ぶと、リーバーさんは口を半開きにしたまま、ぽかーんと呆けていた。 「リーヴィ……って、俺のことか?」 「二人きりのときはそう呼んでるのよ」 「というか、その……なんだ……」 「なあに、どうしたの」 「……お前、口調変わりすぎてないか」  そうか、記憶をなくしたってことはそこからか。  わたしは、科学班で仕事をするときは基本的に荒い口調で話している。男だらけの職場に溶け込むにはそれが一番楽だったのだ。おそらく、そのことを言ってるのだろう。 「今はプライベートでしょ」  話すのが面倒になったわたしは、とりあえずそういうことにしておいた。  そうしてリーバーさんとわたしは、いつもよりちょっぴり距離をあけて、目を閉じた。
 目を覚ますと、愛しい彼の寝顔が目の前にあった。……あれ、このひと記憶なくしたんじゃなかったっけ。どうしていつもの、わたしを抱きしめた格好で寝てるんだろう。つんつん、とあごのあたりを優しくつついても、起きる気配はない。それならいいや、と頬に軽くキスをした。おはようのキスの代わりだ。  さて、軽く身支度をしてしまおう。寝起きの顔は、きっと "他人" にはあまりかわいくない。  科学班では、何事もなかったかのように、いつも通りの光景しかなかった。リーバーさんは本当に、まるっきりわたしのことだけを忘れてしまったようだった。……ということは、そう。わたしと出会う前の、仕事中毒な彼に戻っていた。何年もかけて改善させたというのに、なんということだ。  夕飯を一緒に食べようと思っていたのに、リーバーさんは約束した時間になってもペンを置けなかった。本当に忙しいということもあるけれど、リーバーさんは作業を途中でやめられない人なのだ。 「わぁりましたよ、5分あげるんでどうにか一区切りつけてください」 「いいのか?」 「リーバー班長は中途半端にしたほうが気になって食事できないでしょうが」 「……ありがとう」  再び机に向かったリーバーさんから、時計に目を移す。……うん、やっぱり8分くらいで見ておこう。  ――と思ったのに、なんとリーバーさんは3分過ぎたあたりでペンを置いた。 「もういいんすか」 「とりあえずな」 「よし。じゃ、いこっか」  リーバーさんの腕に手を伸ばすと、スッと腕が曲げられた。記憶喪失になる前、いつもリーバーさんがやってくれていた仕草だ。かちっ、とパズルのピースが合うように、腕組みが完成されてしまった。あれ、とリーバーさんを見上げれば、リーバーさんも目を丸くして驚いていた。 「合ってる、のか?」 「うん、ばっちり」 「……なら、いいか」  リーバーさんは、安心したように微笑んだ。どうやら無意識だったらしい。記憶がなくなっても、わたしのことが体に染み付いているみたいで、なんだか嬉しい。もしかしたら朝のアレもそうだったのかもしれない、と思うと、頬が緩みそうになる。 「おーウェンハム夫妻、今日も仲いいな」  事情を知らない同僚が、あくびをしながら声をかけてきた。気恥ずかしくなりながらも言い返す。 「なんだよジョルジュ、ラボ戻らなくていいのか? そろそろデータ取る時間だろ」 「あっやべ、サンキューコハク!」 「走んなよー」  気を取り直して、食堂へ向かおうと足を前に出すと、腕を組んだ手が引っかかった。びっくりしてリーバーさんを見上げると、彼は少し遠くを見るようにして硬直していた。眉間に、シワが寄っている。 「どうしたの、リーバーさん」 「……いや」  ちらりとわたしを見たリーバーさんは、なんでもない、と言って歩き始めた。その険しい表情は、なんでもないようには見えない。……でも記憶が戻ってないってことは、たぶん教えてくれないだろうな。彼は、ちょっと人よりも感情を抱え込みすぎるきらいがある。  食事を終えて、少しだけ残業をしたあと、リーバーさんを半ば強制的に持ち帰った。なまじ体力があるから、放っておくと寝ようとしないのだこのひとは。  ベッドに腰掛けて髪を梳いていると、隣にリーバーさんが座った。なんだか思いつめているような顔をしていたから、できるだけ明るく声を出した。 「明日くらいには、記憶も戻るといいんだけどねえ」 「……戻らなくても大丈夫だ」  ひゅっ、と心臓がつめたくななった。それは、どういう。どくん、どくん、と大きくなった鼓動が、櫛を持つ手を震わせた。息が苦しい。――まさか、このまま別れろとか言うんじゃ。  もしかして、少し鬱陶しかっただろうか。もしかして、一緒に居て苦痛だっただろうか。そんな「もしかして」が頭をぐるぐると回って、恐ろしくなって、リーバーさんの方を見られない。指に力が入らなくて、平静を装って櫛をベッドの上に置いた。 「コハクは、本当に俺のことを愛してくれてるんだな」 「それはそうよ、結婚までしたんだから」 「そうだよな。結婚、してたんだよな」  やっぱり、記憶のないリーバーさんは、わたしのことなんてどうでもよくなったのだろうか。喉の奥が詰まって、痛い。次の言葉が聞きたくなくて、耳を塞ぎたくなる。 「抱きしめても、いいか」 「……え」  唐突な言葉に驚いて思わずリーバーさんを見ると、頬を赤く染めていた。まるで、そう、初めて想いが通じ合ったときみたいに。  リーバーさんはわたしの返事を待たずに、私の背中に腕をゆるく回した。逃げられるように、してくれてるんだ。 「昨日今日と過ごして、よくわかった。どれだけ俺が愛されてるか。どれだけ、コハクが俺をよく見てくれてたか。……こんなに分かりやすく愛されたら、そりゃ好きにもなるだろ」  考えるよりも先に、身体が動いていた。ぎゅうっと抱きしめ返すと、私に負けないくらい大きな鼓動が聞こえてきた。リーバーさんの体は温かくて、冷えた心臓が少しずつ溶けていく。 「よ、かっ、たあ……」 「どっ、どうしたんだ、コハク?」 「……だって、あなたが怖い顔してたから」  嫌われたかと思った。そう呟くと、リーバーさんはぎこちない手つきで頭を撫でてくれた。 「あれは、その。コハクが他の奴と楽しそうにしてるのが嫌だったんだよ」 「嫉妬してくれたの?」 「だって、コハクは俺の――?」  不自然に言葉が切れたと思ったら、肩を掴まれて、体が離れた。名残惜しく思う間もなく、ずいっとリーバーさんの顔が近づく。 「……コハクだ」 「うん?」 「俺の、コハクだ。……思い出せる」  今にも泣き出しそうな顔で、リーバーさんは笑っていた。  ――わたしの方が泣きそうだったのに、そんなのずるいじゃないか。  大きな手で頭を包まれて、おでこに、頬に、次々とキスされる。仕方ないなあ、とわたしから唇にキスを贈ると、リーバーさんは真っ赤になって固まった。 「……なんか、すごく久しぶりな気がするな」 「ふふ。おかえり、リーヴィ」 「ただいま、コハク」  そして今度は、リーバーさんから唇を合わせてくれた。
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