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焦がれるにはまだ早い

 時計の短針が真上を過ぎて、もう何時間経っただろう。そもそも退勤という概念のない我が職場では、二十四時間灯りが消えないことだってしばしばである。ははっ、こんなのワーカホリックでもないとやってらんないって。でも仕事は待ってはくれないし。……いやいや、自分はまだ正常だ、と思いたい。  さて、出来上がった書類は医療班へ届けなければ。名残惜しくも席を立つ。しかし、床にまで散乱した書類は、踏んでもいいのだろうけど抵抗がある。  ふらあっと傾く身体で、無意識のうちに、 "彼" を目だけで追った。冷えピタを貼った眠そうな姿も素敵だなあ、なんて。こりゃいかん、疲れてるな。私も。そして、そう自認した瞬間、見事に書類へ頭を突っ込んだ。がんっ、という派手な音のあとに、じんわりと痛みが広がる。うわあやってしまった、視界が白い。 「床で寝んなよー、踏むぞー」  ジジさんの声がどこからか聞こえてくる。彼はあれで本当は踏まない、と見せかけてわざと踏むので油断ならない。本当に目をつむってしまわないうちに、上体だけ起こしておいた。  普段はこんなこと、ないんだけど。完全に油断していた。それもこれも彼が魅力的なせいだ、と勝手に責任転嫁しておく。 「おー、大丈夫か」  気づけば目の前に、見とれていた彼――リーバー班長がいた。差し伸べられた手が眩しくて、しぱしぱとまばたきを繰り返す。けれどすぐさまハッとして、意地で立ち上がった。 「だいじょーぶっす!」 「ははっ、元気そうだな」  班長はへにゃりと笑うと、私の肩に手を伸ばし、ぽんぽんと軽く叩く。……この人は、こういうことを無意識にやるのだからタチが悪い。ふわりと浮きかけた心を叩き沈ませ、「じゃ、医療班に行ってくるので!」と敬礼した。
 ウィィィン、という機械音と少しの浮遊感は、まだちょっと慣れない。三角形のエレベーターは、垂直に空へと向かっていた。  ……ちょっと早足になってたの、気づかれなかったかな。触れられた箇所にそっと触れながら、深呼吸をする。  そう、私は、リーバー班長にあまり助けられたくないのだ。彼は心配性だから助けようとしてくれるけれど、できれば彼の手は借りたくない。だって私は、「不要」という言葉が一番聞きたくないのだから。  班員の中でも珍しい女性だから、気にかけられてしまうのは仕方がない。けれど、私だって科学班だ。彼らに引けはとらない、はずだ。少なくとも、そうあるために努力している。そして、そうしてさえいれば、私は彼の、リーバー班長の側に居続けられるのだ。少なくとも、班員という形で。  エレベーターを降りると、科学班とは違い、人はまばらであった。そりゃあそうだ、今はまだ早朝のはずだし。窓のカーテンをそっと開けると、ちょうど太陽が顔を出したところだった。そのきらめきに、先ほどのリーバー班長が重なる。  ああ、眩しいなあ。  いつかきっと、私から手が届きますように。そう願いながら、窓にかかとを向けた。
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