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変わる無意識

 本当の本当に、ただの興味で、ただの好奇心だった。私が勝手に慕っている彼は、私をどの程度に思ってくれているのだろうか、と。  リーバー班長から預かった書類を届けに来ただけ、のはずだった。けれど、机で寝落ちているコムイさんを見て、ちょっぴり悪戯心が芽生えてしまったのだ。  そうっと近づいても、コムイさんは起きる気配すらない。顔を覗き込めば、メガネが盛大にズレていた。ふふっ、かわいい。真剣な顔もかっこいいけど、こういう、気を抜いてふにゃふにゃしたところを見られるのは、なんだか嬉しい。……もちろん、私に向けられた顔じゃないとは分かっている。分かっていますとも。科学班で楽しそうにしている彼を外から見るだけでも、私には充分。  さて、もっと見ていたいけれど、そろそろ起きてもらわなきゃ。まあ、これだけ熟睡してるなら、私ごときのことでは、どうせ起きてくれすらしないだろうけど。いざとなったらリナリーちゃんを使わせてもらおう。  コムイさんの耳元に口を近づけたところで、一瞬ためらう。少しだけ、怖くなったのだ。ぴくりともしてくれなかったらどうしよう、と。コムイさんがなかなか起きないことなんか、教団の誰もが知っている。無反応であたりまえのはずなのに。勝手に期待して、勝手に落ち込んで、ばかみたいだなあ、私。そう考えると、なんだか笑えてきてしまった。うん、今のうちに勢いで言ってしまおう。短く、息を吸う。 「コムイさん。私、結婚しますね」  思っていたより小さな声だった。これは、聞こえてすらいないかも。  と、顔を離した瞬間。がたん、と椅子が跳ねた。遅れて、メガネが落ちる。コムイさんは、机に両手をついて、立ち上がっていた。ゆっくりこちらを向いた顔は、存外険しい表情で。 「誰、と」  その切迫した様子にびっくりして、私は言葉を失ってしまった。何も言わない私に、コムイさんは視線を下げる。 「いや……ごめん。僕には関係ないか」 「ち、違うんです!」  今度は、はっきり声が出た。 「コムイさんを起こしたくて、ほら、コムイさんいつもリナリーで起きるから、もしかしたら私でもって、思っただけで!」  早口でまくしたてると、コムイさんはふたたび、私と目を合わせてくれた。 「……じゃあ、結婚するっていうのは」 「予定もなければ相手も居ないです」  ごめんなさい。そう告げれば、コムイさんは目を左手で覆った。怒られるかな、呆れられるかな。説教を覚悟したのに、彼は静かにつぶやいた。 「よかった」  心から安堵したような声に、胸が跳ねる。 「ほんとに、ごめんなさい」 「嘘だったならいいんだ。でも、できれば次からはやめてほしいな。心臓がいくらあっても足りない」  へらっと笑うコムイさんがかっこよくて、照れ隠しに書類を渡すと、慌ててメガネをかけ直した。どうやらハンコだけ必要だったらしく、今度は折り返しのお使いを頼まれてしまった。暇だからいいんだけどね。  ただ、せっかく来たのにもうコムイさんと離れてしまうのが、少し名残惜しい。丁度いいので、先ほど引っかかったことを聞いてみることにした。 「あの、ひとつ聞いていいですか」 「ん、なんだい?」 「さっきの『よかった』って、どういう意味ですか」 「え」  徐々に、ゆっくりと、コムイさんの頬が染まる。しどろもどろに口を開いては閉じて、視線を彷徨わせて。 「えっ、な、何だろう、どういう意味なんだろうコハクちゃん?」 「わ、私に聞かないでください!」  急に恥ずかしさが込み上げてきて、失礼します! と勢いよく司令室を飛び出してしまった。だって、ただの「よかった」なら、寿退団を心配してとか、言い訳はいくらでもあったはずだ。でも、そうじゃないなら。もし、その言葉に、特別な意味があったのだとしたら。  ああもうまったく、私の頬まで赤くなってしまったのは、絶対にコムイさんのせいだ。もしかして、もしかしたら、ちょっとくらいは希望もあるんじゃないか、なんて勘違いしてしまうのも、絶対にコムイさんのせいで間違いない。  ――そして後日、コムイ室長を起こす決まり文句に「コハクが呼んでる」が追加されたとか、なんとか。
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