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バニラよりも

 うえっ、と、思わず声に出してしまった。バニラのような甘い匂いは嫌いではないけれど、今の私には少々強かった。  午前2時、屍だらけの科学班から逃げるように部屋に戻ったものの、数式がぐるぐる渦巻く脳内は覚醒したまま、なかなか落ち着いてくれず。横になってもどうにも眠れなくて、そこでフレグランスの存在を思い出した。試しに使ってみようかな、なんて軽く思っていたけれど、徹夜明けの敏感な鼻はフレグランス非対応らしい。本来ならスティックを挿して使うものだけれど、ただ蓋を開けたままの状態でさえ、むせ返るほどなのだ。このままだと狭い部屋が匂いで充満して酔ってしまう。  諦めて蓋を閉めたところで、コンコンコン、とドアがノックされた。誰だろう、リナリーあたりかな。はあい、と返事をしてドアを開ければ、目線の先に顔はなく。そこには、科学班班長たる我が彼氏がそびえ立っていた。……いつもながら、リーバー班長はデカいんだよな。 「悪ぃ、起こしたか?」 「いえ、今寝るところでした」  正確には眠れなかっただけだけど、心配性な彼にわざわざ言うことでもない。リーバー班長は見るからにやつれていて、目の下の隈もひどい。彼こそ心配されるべき側だ。 「そうか――ん?」  すん、と短く息を吸い込んだ彼は、何かに気づいたようだった。 「なんか、いい匂いするな」 「ああ、ルームフレグランスですかね」 「ルームフレグランス?」  こっちです、と部屋に招き入れる。リーバー班長は少しためらってから、部屋の扉を閉めた。 「少し前に婦長に頂いたんですけど、さっき使ってみたらちょっと強くて。いい匂いなんですけどね」  再び、少しだけ蓋を開けると、ふわっと広がる甘い芳香。けれど、彼は少し不思議な顔をして、首をひねった。 「んん……何か違うな」 「違う?」 「こう甘ったるい匂いじゃなくて、もっと落ち着く――ああ」  リーバー班長は私の頭を引き寄せると、そのまま腕の中に閉じ込めた。頬に擦れるシャツからほんのり彼の匂いがして、どきっとする。 「お前の匂いだ」 「わ、わたし、ですか」 「ああ」  つめたい指が、つうっと私の顎をなぞる。 「部屋って、住む人間が違うとこんなに匂いも違うんだな」 「そう、なんですかね」  顔が近づいて、額に、鼻に、頬に、瞼に、優しいキスを落とされる。私はというと、突然の甘い雰囲気についていけなくて、でも心臓はばくばくして、まさしく混乱状態だ。 「そっ、そういえば! 班長、何か用があって来たんじゃ」 「ああ、それなんだけどさ」  少し離れた温もりにやっと息をつくと、空色の瞳と視線がかち合った。 「なんか、眠れなくてな。けど、お前の側なら寝られる気がしたんだ」  もしかして、私と同じだったの。一緒に寝てくれねぇか、なんて言われしまったら、断る理由もない。うまく出てこない言葉の代わりに腕を掴もうとしたら、バランスを崩して、そのままベッドへダイブしてしまった。少し呆けていたのが、だんだんと笑いに変わる。二人でひとしきり笑いあったあと、靴を脱ぎ捨ててシーツに沈んだ。次は "リーバーさん" の部屋で寝させてくださいね、なんて。ようやく訪れた微睡みに身を委ねつつ、まぶたの向こうの彼に願った。
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