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追記のプロローグ

 案外なんとかなるもんだ。手に入れたばかりの足を揃えて地面を蹴ってみると、ちょっとだけ体が宙に浮かんだ。なんだか逃げ足の速いホタテを思い出す。……いやいや大丈夫、ちゃんと歩き方は知っている。両足じゃなくて片方ずつ、交互に前に出すんでしょ。しっかり確認してきたもの。  ピンクゴールドのティアラを指にはめたわたしは、さっそく "海の魔女" のところへ行ってきた。人魚姫効果を狙ったのか、あの童話が広まって数年後くらいから、深海にも魔女が住み着くようになったのだ。何でもとはいかないけれど、できる限りで依頼をこなしてくれる。つまりは便利屋さんだ。  彼女はわたしの指輪を見るなり、ものすごーく苦い顔をした。そしてどこからともなく取り出した薬と布を手渡して、すぐにわたしを追い出した。お代は、と聞いたら、「もうたんまりもらってる」と扉越しに叫ばれた。  そのあと荷造りのために寝床に戻ったけれど、すぐに終わってしまった。そもそも地上に持っていける荷物なんてほとんどない。  誰かに言伝を頼もうかとも考えたけれど、ちょっと考えてやめた。反対されるに決まってるんだから、無視するに限る。家出だ、家出。そもそも結婚しろってうるさかったんだから、ちょうどいいじゃない。というわけで、「たぶん結婚しに行ってきます」とだけ書き置きを残しておいた。ペンを置いて、そのまま買い物にでも行くような格好で地上を目指した。  そこからはもう、何も問題はなかった。指輪が引っ張ってくれたおかげで行き先には困らなかったし、地上に着いたら魔女の薬で人間の姿になれた。一緒にもらった布は、広げてみると服のようだった。さらに、岩陰には靴のようなものも隠されていた。……ちょっとだけ、青空が見えないのが残念だけど、それは些細な問題だ。そもそもここは分厚い霧に包まれているらしいし。  というわけで、冒頭に戻る。  ひとまず、裸足のままで練習してみる。久々の重力に負けそうになるけれど、どうにか歩けそうだ。やっぱり、頭がものすごく重い。足を動かすだけなら泳ぐのと同じだけど、腹から上がぐらぐらしてしまう。人間のみなさんはよくこれを毎日できるものだ。  許容範囲かな、と思えるくらいに練習してから、靴(でいいのかな)に足を入れてみる。すると、きゅぴーんという音と共に、靴(で合ってると思う)がわたしの足にぴったりとくっついた。……すごい、脱げにくそうで、動きやすい。  さて、準備ができたからには一刻も早く彼の元へ向かわなければ。なにせ、さっきから指輪からの引力がすさまじいのだ。決してわたしが早く会いたいとかそういうことではない。そう、決して。
「それでそれで~?」 「そろそろ来る頃じゃないかなあと思うんだよねえ、たぶん」 「術式反応は確認したんでしょ~?」 「だから今、ここで待ってるんじゃないか」 「んふふ~」  アリギュラちゃんは潮風に吹かれる髪をおさえながら、にまにまと笑った。ベンチに座ったまま足をパタパタと動かしている。僕はその隣で、座っていることもできず、ただ背筋を伸ばしていた。 「でも~なんですぐに迎えに行かなかったのよ~」 「……行けなかったんだよ」  彼女はまだ、子どもだった。人魚の一生というものは途方もなく長い。成長のスピードもそれぞれで、大人になるまで10年で済むこともあれば、500年かかることもある。彼女の場合は、それが100年だった。  もうひとつは、薬の問題だ。僕が海に行くことは容易い。けれど、彼女が願ったのは "人魚姫" だった。彼女を人間にするためには色々あったけれど、まあどれもこれも過ぎたことだ。 「なんだい」 「フェムトったら~その子のこと~すっごい好きなのね~」 「当たり前じゃないか、なんせ――」  そのとき、わずかに靴音が聞こえた。振り返れば、白いワンピースに身を包んだ、彼女。すらりと伸びた足の先には、彼女の鱗と同じターコイズグリーン。ああ、一段と美しくなった。そう思ったそのとき、腹部に強い衝撃。 「ぐ、っ」 「女の子とデートだなんて、ずいぶん良いご身分ですわねえ、お・う・じ・さ・ま?」  よろめいて、二歩ほど下がる。拳を構えた彼女は、明らかに不機嫌だった。アリギュラちゃんだけは、きゃあっと声をあげて大喜びだ。 「勘違いも甚だしい!」 「なによもうっ、この浮気者! わたしの100年を返せ!」 「浮気なんてできるものか!」  僕は勢いに任せて、彼女の左手を包み込んだ。びくっ、と彼女が肩を揺らしたけれど、そんなもの気にしていられない。 「100年だ。100年も、君は僕を離してくれなかった。こんなに長い100年は僕でも経験したことがなかったのに、他のひとなんて目にも入らなかった。おかげで玉座の隣はからっぽだ」  ピンクゴールドの嵌った薬指を撫でると、彼女の頬はぶわっと色づいた。 「なんせ、僕が初めて心から愛した女性だからね」
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