誰がために
書類を片手で運びながら、今日のお昼はどこにしようかな、と思っていると、突然首が絞まった。うぐえ、と変な声が出たところで真っ白な布がちらりと見える。あ、ザップさんか。認識した結果、容赦なくふくらはぎを後ろに向かって振り上げた。
「い゛っ!?」
クリーンヒット。襟を正してガッツポーズした。
前かがみでピクピクする猿に背を向ける。また絡まれてお昼が伸びるのも嫌なので、さっさと用事を片してしまおう。
足を再び踏み出すと、そこにしゅるっと赤い影が。
「……その手には乗りませんよ」
「いいから聞けって」
「なんですか」
「昼メシ、」
言いかけたところで「奢りませんよ」と釘を刺せば、「逆だ逆!」と返された。……逆?
「このザップ様がテメーに奢ってやるって言ってんの、それ終わったら行くぞ」
聞き間違いだろうか。
スターフェイズさんに書類を渡しがてら、それとなくザップさんが食事を誰かに奢ったことがあるか聞いてみれば、面白い冗談として受け取られた。そんなことがあったら天変地異だぞ、ですよね私もそう思います。
しかし執務室から出ると、ザップさんは確かにそこにいた。
「前言撤回するなら今のうちですけど」
「っせーよ、オラ行くぞ」
何か、企んでいるだろう。何の見返りもなしに誰かを誘うなんてことはコイツの場合はまずない。用心するに越したことはないな、とこっそりイヤリングに仕込んだGPSをオンにした。
細い道をするすると進んでゆく背中に、一応遅れずについていく。警戒は怠らない。しかし、速いな。歩幅が違うのだから当然ではあるのだけれど。
ふう、と息をつくと、銀色の瞳がちろりとこちらを捉えた。するとザップさんはふっと速度を緩め、私の隣に並ぶ。なんなの、と睨み返すと、無言で手を取られる。特に反応せず放っておくと、あろうことか指を絡めてきた。これは、まるで仲良く歩くカップルではないか。
「やめい」
思わずバシッと振りほどく。
すると一瞬ひるんだような、心外であるような、……もしくは、傷ついたような顔が見えた気がして、すぐ目を逸らしてしまった。
やかましく抗議されるかと思ったが、意外にも彼は低く静かな声を出した。
「……んだよ」
「あんたの愛人に見つかって痴情のもつれに巻き込まれるのは御免だからイヤです」
「…………」
ぼそぼそと何かを呟いたようだったが、喧騒に近づいたせいで聞き取ることができなかった。まあどうせ大したことではないだろう。
路地から出てみれば、そこは見慣れた、生存率の高い大きな道だった。どんな怪しい店に行くつもりかと思っていたけれど、どうやら近道しただけだったらしい。
ザップさんは手こそ繋いで来なかったものの、ゆっくり斜め前を歩いていった。私に合わせてくれているのだろうか。いやまさか!
しかしそもそも、彼は朝からとことん調子がおかしかった。いつもなら嫌味を10倍のセクハラで返すような男なのに、今日に限っては「うるせー」の生返事。なにか面倒ごとに巻き込まれなければいいのだけれど。
などと脳内談義している間に到着したようで、カラランとドアベルを鳴らした。視界を無意識に狭めていたせいで外観をはっきり注視してはいなかった……が、おしゃれなオープンテラスのあるパスタ屋さん、に見えた気がしたのだが。
そんな小奇麗な店に葉巻をくわえて行くのはいかがなものか、と見上げてみれば、そこに葉巻は存在しなかった。そういえば今日、彼が葉巻をくわえていたところを見ただろうか。
ザップさんが名を告げると、店員は迷いなく案内しはじめた。まさか予約していたのだろうか。
――ここで推理タイム。
様子のおかしいザップさん、いつもはしてこない過剰なスキンシップ、そしてこの予約してあるお店。
間違いない、本命にフラレて傷心中だな。そして私に慰めてもらおうとしてるな。
私も鬼ではない、代役まで行かずとも、食事くらいは付き合ってやろう。
そんな気まぐれの慈悲で、彼の少々雑なエスコートに従って席についた。比較的人間の多い店のようで、その中に穏やかな異界人が溶け込んでいるようだった。そんなことだから、ザップさんはけっこうこの場から浮いて見えて、そっぽを向いたままの彼に気づかれないように、こっそり笑ってしまった。
コースはあらかじめ決めてあったようで、すぐにパスタが運ばれてきて、そのまま軽口を叩きながら楽しく食事を終えた。しかしその間もしっかり目が合うことはなく、なんだかんだで彼はどこか遠くを見ているようだった。
これほんとに奢りでいいんですよね、と確認を取ると、当たり前だバーカ、と返ってきた。
「それにまだ……」
「まだ?」
「お待たせしました」
聞き返すと同時に、ウェイターさんが何かを持ってきた。テーブルを再び彩ったのは。
「本日の限定メニュー、ザッハトルテ・バレンタインスペシャルでございます」
なめらかなチョコに包まれた、小さな丸いケーキだった。てっぺんには薔薇の砂糖細工がちょこんと乗っていて、まさに、女の子が好きそうな。
ごゆっくりどうぞ、とウェイターさんが去ってからも、私は呆けたままフォークを取れなかった。
「んだよ、食え」
「ほんとに、いいんですか、だって……」
言いかけて、ぽろっと目から雫があふれた。慌てふためく彼に、ごめんなさい、違うんです、と弁明する。
「だって、……あまりにもっ、かわいそうで」
「は?」
「だってこれ、本命の方にあげる予定だったんですよね」
口を半開きにした状態のまま固まったザップさん。やはり、予想は当たっていたのだ。
普段はクズでどうしようもない人だけれど、そんなダメ人間をここまで本気にさせる相手が、いたのだ。なのに。
「ほんとは、本命のかたにあげたかったのに、こんなに、……準備してたのに、本命の方が来られなくて、なのにそれを……わたしが、口にするなんて」
「ちょおい、待てストーップ!」
「あ……」
ごめんなさい、聞きたくもなかったですよね、と早口でまくしたてると、ザップさんは、あー、うー、と数秒うなって、「あーもー!」と叫んだ。
「だから! なんでそうややこしく考えんだよテメエは!」
そして、私の目を、ついに、直視して。
「全部! これ全部お前のために準備したの!」
ホワイトデー企画2016