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補色に絆されて

 雨は私を不幸にする。  そもそも、私が生まれたのは土砂降りの日だったらしい。産気づいた母が救急車を呼ぶも、近くの川が氾濫して到着できず、早産に加え衰弱した私は数ヶ月カプセルの中だった。それだけじゃない。転んで左手小指の骨を折った日も、受験に落ちた日も、彼氏の浮気現場を目撃した日も、決まって雨が降っていた。  HLに配属が決まったのも、雨の日だった。今でこそ色々と条例が取り決められて、辛うじて "ただの人間" も住めるようになったが、当時は生存率の低さから「ひと月保ったら儲けもの」とすら思われていたのだ。身長150にも満たないチビの女がこんなところで2年半も生きていられるなんて、会社は想定外だったようだけれど。おかげで、給料の未払いを不審に思った私が3ヶ月後に連絡した時には、既に会社から除籍された後だった。それが判明したのも雨の日だったか。  とにかく、私は雨が嫌いなのだ。 「なのに、ここ3日間、ずっと降りっぱなしですよ」  はあ、と母国語でぼやきながら、窓の外を見やった。半分ほど残ったコーヒーは既に冷めている。鬱々とした気持ちを吹き飛ばすために、思い切ってお気に入りのカフェに来たというのに、やっぱり気分は上がってくれなかった。店長おすすめの豆だと言っていただけに、なんだか申し訳ない。  数分前から止まっている指先にはキーボード。開かれたままのノートパソコンが、そこにはあった。画面には「Message sent successfully.」の文字。個人で細々とネット経由の仕事を受け持っているのだが、今日は雨が降っているから、先方に気に入ってもらえないかもしれないな、とふと思った。  さて、仕事が終わった今、ここに長居しても意味がない。コーヒーをぐいっと一気にあおり、ごちそうさまでした、と手を合わせた。この癖だけは、日本から離れてもどうしても抜けない。席を立ち、ノートパソコンを閉じ――ようとした、そのとき。  目の前の壁が、何の前触れもなく崩れた。  そんな、今日の生存率は高かったはず。なんてことを考えるのに頭を使っていたら、すっかり足が固まっていた。まぶたさえ張り付いたように動かせず、ただただ漂う霧と迫る瓦礫を見つめていた。  ああ、雨の日に死ぬのか、私。  諦めと恐怖から膝が崩れた……が、私の体が床に落ちる衝撃を感じることはなかった。代わりに背中の暖かさと、先程までとの景色の違いに気づくまで、数瞬。 「お怪我は、ミズ」  目の前に、赤鬼がいた。しっとりと濡れた髪は、ネオンに反射して、太陽のように煌めいていて。  それだけ確認すると、私は意識を手放した。
 何やら騒がしい。2人分の、男性の声だ。ぼんやりととろけた頭で、聴覚だけがはっきりしていく。 「連れて来ちゃマズくねっすか」 「ちょっと用事があるんだよ」 「だったら別にここじゃなくても、」 「ザップ、静かに。目覚めたようだ」  二人とは違う、内側から響くような低い声に、そろそろと目を開ける。真っ先に視界に入ったのは、緑色の瞳。 「起き抜けに申し訳ない。フリープログラマーのミズ・菅崎でお間違いないでしょうか」 「は……い!?」  がばっと起き上がれば、そこは見慣れぬ室内だった。赤い壁に市松模様の床、至る所に植物が置いてあり、男性が3人。そのうちのひとりが、赤鬼……もとい、緑色の瞳の持ち主であった。眼鏡越しに、こちらをじっと見つめている。そのまっすぐな視線が日本人で人見知りな私には耐え切れず、思わずうつむいた。私が眠っていたのは大きなソファだったようで、端に座り直すと、赤鬼さんは隣に腰掛けた。正面に座った青シャツの男性が、今度は口を開いた。 「すまないね、本当は病院にでも連れて行こうと思ったんだが、君のパソコンをたまたま見てしまってね。折り入って相談がある」 「……お仕事のご依頼でしょうか、あの、あなた方は」  ちらりと目線を向けると、口の端がにやりと持ち上がった。 「ああ、申し遅れました。ライブラ、という組織名をご存知でしょうか」  かの有名なライブラを、知らないわけもない。だがそのライブラに、私の名が知られているとは思いもしなかった。どうやら、技術系の人員を探していたときに目に入ったのが、赤鬼――クラウスさんの嗜んでいる、プロスフェアーのゲームだったらしい。そのプログラムを組んだ私をたまたま発見して、ここまで連れてきた、と。 「無理です」 「報酬は保証しますから」 「そんなこと言われましても」  提示された額はあまりにも大きすぎて、しかも継続的な雇用らしい。怪しさ満点、何より今日は雨が降っている。私には無理だ、少なくとも今日頷いてしまったら悲劇が起きる。そう判断したのだが。 「どうしても、駄目だろうか……」  縮こまって、しゅんとつぶやくクラウスさんに、キュンと心臓を射抜かれた。
 ――やってしまった。  クラウスさんの可愛さに負けて、気づいたら契約書にサインをしていた。もちろんちゃんと確認はしたし、見た限りおかしな内容はなかった。けれど、会社というものに若干のトラウマがある私は、ずっとフリーでいるつもりだったのだ。おのれクラウスさんめ。  当のクラウスさんは、私の隣でご機嫌に傘をさしている。アパートまで送ってくれるのだそうだ。丁重にお断りしたのだが、クラウスさんのしぶとさに根負けした。プロスフェアーを嗜むだけあるわ、とこっそり溜息をこぼす。幸い彼は気づかなかったようだ。身長差と雨がありがたい。 「じゃあ、ここなので」  巨体を見上げて大きめの声で言うと、クラウスさんは身をかがめて、私の目線まで降りてきた。  緑色の瞳と、かち合う。 「それではまた明日、コハク」  低い、内側から響くような声に、また心臓が忙しく動いた。  放心した私は、そのままクラウスさんが見えなくなるまで道路を眺めていた。  雨は私を不幸にした。でも。  クラウスさんに出会ったのも、助けられたのも、一緒に働けることになったのも、雨の日。たったそれだけで、ちょっとだけ、雨が好きになれそうだ。  雨の日も、あなたが太陽になってくれたら、きっと晴れになる。――なんて。
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