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月夜に出会った陽気なひと

 ヘルサレムズ・ロットでは空が見えない。霧に包まれているから。そのことを今の今まで、なぜ思い出さなかったのか。  ぽけーっと、今夜も月が綺麗だなあ、と眺めながら上機嫌でいつもの近道を通っていたら……やってしまった。こいつはぜったい、生還率30%を切っているに違いない。  一方的に見知った人物、堕落王フェムトが、そこにいた。さっきまで月だと思っていた飛行物体の上に腰掛けて。 「やあ、レディ」  私が内心どれだけ焦っているか知らないであろう彼は、とても陽気に話しかけてきた。飛行物体は淡く発光していて、安定してふよふよと浮いていた。 「……どうも」 「丁度よかった、君」 「いやです」  とっさの反応、しかし口から言葉が出た後になって、じわりと恐怖を覚える。堕落王相手に否定の言葉を投げつけてしまった。しかもただの否定ではなく、嫌がってしまった。  これはまずいのではないか。しかし逃げ出したくても、恐怖で体は岩のように固まってしまい、動いてくれない。  万事休す。死の覚悟を改めたそのとき――聞こえてきたのは、笑い声だった。 「えっと、あの」 「何だね、取って食ったりはしないよ! 僕が常に殺戮のことしか考えていない一辺倒な奴だとでも思っているのかね! ああ愉快!」  あっはっは、と尚も笑い転げる堕落王に、私は呆けることしかできなかった。発光物体、バッシバシ叩かれてるけど、大丈夫かしら。 「いやあ失敬、こんなに平淡に答えられたのは初めてでね」 「はあ」 「そう、その反応だ。君は堕落王に会って、まず驚くという選択肢がないのかね」 「驚いてます」 「嘘だろう!」  ひー、と再び笑い始める堕落王フェムト。こんなにゲラゲラ笑ってどうしたんだろう、ワライタケでも食べたのかな。そう思ってしまうほど。  しばらくしてようやく笑いの波が引いたのか、こちらに向き直った。 「君の反応の薄さには目を見張るものがあるなあ」 「それ褒めてませんよね」 「褒めてはいないが面白い!」  それは私にとって幸なのか不幸なのか。どちらにせよ堕落王は私に悪い印象は持っていない様子で、この調子なら無事に帰れそうだ、と安堵する。  しかしまあ、想像していたより陽気な人物だ。「人物」と言っていいのかどうかは分からないけれど。堕落王は依然ふよふよと浮いており、発光物体は発光したままだ。眩しくて、目を細める。 「そうだ、君を引き止めた理由を忘れていたよ」  忘れてくれて構いません、とまた口から出そうになったが、今度こそ腹の中にしまった。 「なんですか」 「絆創膏を持っていないか」  絆創膏。  堕落王フェムトに、ここまで似合わない言葉があるだろうか。  ……絆創膏。 「どこか怪我でもしたんです?」 「降りてくるとき、どこかに引っ掛けたようでな」  人類じゃないと思っていたのだけれど、堕落王でも怪我はするようだ。確かバッグにあったような、と記憶をたどりつつ探すと、内ポケットのファスナー部分に入っていた。 「あった。これ、どうぞ」 「ありがとう、助かる」  手渡すと、その瞬間風が吹き――堕落王フェムトと発光物体は、遥か上空へと飛んでいった。
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