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手巾はいらない

1. 焦燥

 この日ほど、己の無知を呪った日はなかった。  今年の2月14日は日曜日で、ライブラの活動もないのにコハクさんがわざわざ訪れた、その時点で日にちに何か特別な意味があると察するべきだったのだ。バレンタインデー。ずいぶん昔に文献でしか見たことのなかった文化が、ここには当然のように存在した。  しかし、それに気づいたのは、もう3月に入った頃。慌てて調べてみれば、コハクさんの故郷では、ホワイトデーというものもあるらしい。これに乗らない手はない……と、勢いづいたまではよかった。  結論から言えば、どうやら間違っていたらしい。 「コハクさんが、あれ以来口を利いてくれません……」 「あーあーやっちまったな」  スパゲッティにむしゃぶりつく兄弟子は眉間にしわを寄せた。  自分だけではどうすることもできないと判断した僕は、ランチを利用して、友人のレオくんと、気は進まないが女性関係に詳しそうな兄弟子に教えを請うていた。  からかわれることを覚悟の上であったが、兄弟子もさすがに見るに見かねていたのか、いつになく真剣に話を聞いてくれている。  しかし、その。以前から密かに好意を寄せていた女性に避けられるというのは、かなり心に来るものがある。  レオくんの助けも借りて、調べてみたところ分かったのが、「日本でハンカチは贈り物としてタブーである」こと。 「それは俺も知らなかったぜ。『漢字』ってーのは奥深いな」  日本では、ハンカチを漢字で書くと、「別れ」を意味する言葉に通ずるらしい。それが巡って、ハンカチを贈るという行為は、「絶交」を意味してしまうのだとか。 「でも、知らなかったなら弁明すればよかったじゃないですか」 「それがですね」  ハンカチを贈る際に、こう言ってしまったのだ。日本の文化のことを学んでみました……と。 「そりゃ言い逃れできねーな」 「いやでも仕方なくないすかこれ!?」 「だからといって許されるわけねーだろ、女の執念なめんなよ童貞ども」  いや、コハクさんに限ってそんなこと――と思いたいが、実際のところどうなのかは分からない。女性というのは細かいところまで気配りができると言われているが、同様に、細かいところまで気にかけてしまうのも事実だ。 「どうしましょう、絶対に怒ってますよねコハクさん」 「厚意で頂いたものを、悪意で返してしまったわけですからね」  そして、また議論が詰まってしまう。  頼りになるかと思った兄弟子は、「好きならサクッと告っちまえばいーじゃねえか」の一点張りで使い物にならないし。  ダメ元で弁明するにしても、コハクさんは最近僕のことをあからさまに避けている。チャンスはないに等しいだろう。 「なんだよ暗い顔して、景気悪くされちゃこっちがたまんねーよ」 「……ビビアンさん」  ビビアンさんはおかわりのコーヒーを注ぐと、「まあだいたい聞こえてたけどさ」と前置きして話し始めた。 「本当に怒ってるかなんて、聞いてみないとわかんねーぞ。もしかしたら避けてるのには、別の意味合いがあるかもしれないだろ」 「別の意味合い……」  頭のなかに、コハクさんを浮かべる。 「怒るより、コハクなら別のこと考えてそうじゃねーか?」 「そう、かもしれません」 「だろ」  女心は女に聞け、ってな。  言うだけ言うと、ビビアンさんはくるりと背を向けた。

2. 傷心

 文化の違いから期待はしていなかったホワイトデーに、思いがけずプレゼントを頂いてしまった!  と、喜んだ……まではよかったのだ。  日本の文化のことを学んでみました、の言葉と共に贈られたのは、「手切れ」を意味するハンカチであった。 「どうしようやっぱり振られたんだよねこれ……」 「まだ決まったわけじゃないわよ、直接気持ちを聞いたわけでもないんでしょう?」 「けどっ、けどおおお!」  だんっ、とコーヒーをテーブルに叩きつけると、一瞬だけ店内が静かになった。しかしすぐに喧騒が飲み込んでゆく。  ツェッドさんのいる空間がどうにも耐えられなくて、ランチを口実に、チェインさんを連れてダイナーまで来てしまった。そのついでに、私の片思いを知っている彼女に、相談に乗ってもらおうという寸法である。 「おーおー荒れてんなあ」 「あ、ビビアンさあん」  うえーん、と手を伸ばすと、ビビアンさんは頭をなでてあやしてくれた。 「どうしたんだよコハク、この前まではごきげんだったのに」 「……それがですね」  かくかくしかじか、と事のあらましを話せば、ビビアンさんは「なるほど、日本語ってのはめんどくせーな」と不思議そうにした。 「でもそりゃ、コハクが避け始めたのが悪かったんじゃねーか?」 「でも……嫌いな相手の顔なんて、見たくもないだろうし」 「それだよそれ」  はーあ、と溜息をつかれる。 「どっちにしろ本人にしか意図はわかんねーだろ、直接聞いてみろよ」 「……でも、怖いです」 「怖いのは、どうしようもないよね」  わかるわかる、とチェインさんが同意してくれる。 「けど、ツェッドってほら、世間知らずなところあるじゃない」 「そもそも日本のバレンタインの意味も、よく知らなかったんじゃねーの?」  日本においても友チョコは存在するけれど、日本で「女性から男性にチョコを渡す」意味は、告白が主である。それを、ツェッドさんは知らなかった? 「バレンタインデーでなんにも反応なかったってことは、少なくともそのときは知らなかったんだろ。それで慌てて調べてどうにかプレゼントを見繕った、ってとこだと思うね」 「……そう、でしょうか」 「それに、日本でもプレゼントにハンカチ贈ることは普通にあるんだろ?」 「でも……その」  うつむいて尚も渋ると、「よし」とチェインさんは私の肩を叩いた。 「あたしが一肌脱いであげようじゃないの」 「チェインさん……なにを」 「いいから、ちょっと何日か付き合ってよ」  ウインクすると、チェインさんは霞のごとく消えていった。

3. END

「女心は女に聞け、ってな」  言うだけ言うと、ビビアンさんはくるりと背を向け―― 「な、チェイン」 「まったくです」  すちゃ、と瞬時に現れた人狼に話しかけた。  盛大に悲鳴を上げたレオくんと兄弟子に対して、僕は驚きで声が出ない。そんな僕らに構うことなく、チェインさんは続ける。 「そんなこったろうと思ったのよ、世話が焼けるわね」 「んっとだよ、それに関してはこの犬に同意だ」 「アンタの意見は聞いてない」  バチッと火花が散ったところで、これ以上燃え広がらぬようにという意味も込めて、チェインさんに問う。 「コハクさんは! ……コハクさんは、怒っていなかったんですか」 「当たり前でしょう、だってコハクは」 「チェーイン」  言いかけたところで、ビビアンさんが制止する。 「あいつはな、悲しんでたんだよ。ツェッドに嫌われたかも、ってな」 「そん、な」 「じゃ、お前のやるべきことはひとつ、だろ」  あの子はアンダンタル広場の噴水前よ、とチェインが口に出したのは、自分が毎週日曜に血法で大道芸をしている場所。
 さあっと風が吹くたび、もしかしてツェッドさんが来たのではないかと錯覚して、心臓が脈打つ。  チェインさんに言われてこんなところに居るけれど、これから何が起こるのかは教えてもらえなかった。しかしここはツェッドさんがよく来る場所でもある。もし、鉢合わせしてしまったら。 「コハクさん!」  どくん、とひときわ大きく胸が鳴る。この声、は。  どうしよう逃げなきゃ、と立ち上がったがもう遅く、赤い紐が私の腕を捉えた。しかし足は動き出してしまった後で、それと腕の体を引っ張るベクトルが真逆になり――落ちる、と確信したときだった。  強い風が下から吹き上がり、思わず目をつむる。体が重力に逆らったかと思うと、少しの浮遊感ののち、柔らかく何かに受け止められた。恐る恐る視界を広げると、そこには。 「す、みま、せん……ちょっと取り乱しました」 「ツェッド、さん」  の、顔が間近にあった。  よくよく確認してみれば、ツェッドさんの腕は私の両足と背中をがっちりと支え、端的に言えば「お姫様抱っこ」をされていた。  さっきの比にならないくらいどきどきして、顔が熱くなる。見られるのが恥ずかしくて身じろぐと、ツェッドさんはさらにぎゅっと腕の力を強めた。 「逃げないで」  耳元で聞こえた懇願するような掠れた声に、硬直するしかなくなってしまう。  「なんで」と「どうして」を頭のなかで繰り返していると、ツェッドさんは私をそっと木陰のベンチに下ろし、代わりに手をぎゅっと繋いだ。  深呼吸をする暇すらない。すっかり茹で上がってしまった私に気づいたのか、ツェッドさんは頭を撫でて落ち着かせてくれた。  とん、とん、というリズムに合わせて呼吸をすれば、心音が戻ってゆく。しばらくそうしていると、心地よくなってしまって、頭がふわふわしてきた。たぶん、緊張しすぎていた反動だ。引っ張られて、そのまま頭をひんやりしたものに預ける。 「そのまま、聞いていてくださいね」  低く優しい声が響く。  ぽつり、ぽつりと語られるその話が、まどろみの中に入り込んでゆく。
 一件落着、とコーヒーをすする女性陣を、僕らはぽかんと見つめていた。 「……え、どういうことですか」 「どういうことも何も、見た通りだけど?」  いやいやいや、わかんないですって。  説明を欲しがる僕らに、しぶしぶチェインさんが事のあらましを教えてくれた。  コハクさんが落ち込んでいて、励ましていたこと。チェインさんとビビアンさんが共謀して、ツェッドさんの本音を聞き出そうとしたこと。そして、広場にコハクさんを待たせて、二人きりで話をする機会を設けようとしていたこと。 「ほんとはアタシから話題を振るはずだったんだけど、必要なかったな」  アハハハ、と歓談する二人。 「えーとつまりあれか、魚類とコハクは」 「両思い」  がくっと肩を落とす。  壮大な茶番に付き合わされた気分の僕らは、冷めてしまったコーヒーの代わりにコーラを追加注文した。
ホワイトデー企画2016
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