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夢路のシナリオ

 かの有名なヘルサレムズ・ロットで「堕落王」とか呼ばれている人が居るらしい。そんな噂をメンダコから聞いたとき、初めはふーん、くらいにしか思わなかった。噂のリーク画像なんてものにも興味すら覚えなかった。でも何かが引っかかる。なんだろう。何かを忘れている気がする。そんな淡い胸騒ぎを抱えながら寝床へ戻ると、小さな宝箱が目に入った。そういえばここ数十年ほど、宝箱を開けていなかった気がする。懐かしいなあ、と蓋を開けようとすると、触れる前にずるりと蓋が滑り落ちた。ああ、壊れてたんだっけ。そんなことも忘れてしまうほど放っておいたなんて、何が入っていたんだろう。目線を戻せばそこには、錆びついた金属の塊。そっと取り出すと、キィン、と突然の耳鳴り。 「ぎゃっ」  思わず "それ" から手を離す。"それ" は海底に落ちることなく、鈍く光ったかと思うと、突如泡に包まれ――本来の姿を現した。ピンクゴールドの、ティアラの形をした繊細なリング。「待っていたよ」、と、彼の声が聞こえた気がした。引き寄せられるように左手を伸ばせば、リングは薬指にぴったりと収まった。  ……待って。思い出した、そんなことあったわ。けど、いやまさかそんな。急に呼び覚まされた記憶に、思考が追いつかない。そう、そうだ、それは100年くらい前、わたしがまだまだ子どもだった頃の話だ。
 わたしは「人魚姫」が大好きだった。陸の人間である、ハンス・クリスチャン・アンデルセンの有名な童話。それは海底に住むわたしたちのところまで届き、将来はわたしも人魚姫になりたいと、胸を踊らせていたものだった。そんなわたしのことを、周りのみんなは笑って言った。「あなたはもう人魚姫じゃない」、と。そりゃあそうだ、わたしは人魚の王の末娘だったのだから。けれど当時のわたしには、どういうことかさっぱり分からなかった。ただわたしは、彼女のように、命を懸けられるようなロマンティックな恋がしたかっただけなのだ。  そう、だから、若さも手伝って、あんな無茶をしでかしたのだ。  きらきらした海面を突き破ると、月明かりが瞳を潤した。生ぬるい風は頬を撫で、濡れた肌を冷やしていった。なんとかして岩によじ登り、腰を落ち着けたときには、額から液体がだらだらと流れた。あれはきっと汗だったと思う。  人間に見つかってはいけない、なんて、いつから続く掟だったのか。少なくとも、ご先祖様は人間を好んでいたみたいだけれど。「なぜ」禁止されたのか、それを考えることをしなかったわたしは、ほんのちょっとの好奇心だけで、陸に上がってしまったのだった。  人間を模した名残を本能的に覚えているのか、肺呼吸には苦労しなかった。胸いっぱいに空気を吸い込めば、胸の下あたりがちりちりと痛んだ。そして、月に向かって投げかけた。わたしたちに伝わる、けれどもう魔力をほとんど失った、美しいだけの歌声を。  歌が終わるのと拍手が響いたのは、ほぼ同時だった。えっ、と振り向けば、奇妙な金属で顔を覆った人間が立っていた。 「ごきげんよう、セイレーン。いや、今はマーメイドと言うべきかな」  不思議と恐怖は感じなかった。ただ彼は、わたしの側まで来ると、少し上の岩場に腰掛けた。逃げようと思えば逃げられる距離。今思えば、あれは彼なりの気遣いだったのかもしれない。警戒心を忘れたわたしは、気づくと彼に声をかけていた。 「ごきげんよう、人間さん」 「厳密には人間じゃないけど、まあいいや」 「それじゃあ、どう呼べばいい?」 「そうだなあ。王子様、なんてどうだい?」 「王子様!」  その瞬間、わたしの頭は人魚姫でいっぱいになった。彼はわたしの考えていることがすぐにわかったようで、でもわたしの夢を壊さずにいてくれた。  それからは、数日置きに岩場に遊びに行くようになった。わたしの歌声を彼は気に入ったようで、お礼にと様々な物語を語ってくれた。アンデルセンはもちろん、ペロー、グリム、イソップ、東の国や砂漠の国の昔話まで。そうして、次第にわたしは、彼の甘美な声の虜となっていった。  けれど、終わりは突然訪れた。姉の結婚が決まり、そこにわたしがついていくことになったのだ。遠い遠い、東の海だという。きっともう会えない、少なくとも、彼が生きているうちは。それに気づいた瞬間、わたしの胸はぎゅうっと掴まれたような痛みに襲われた。苦しくて、息ができない。ごぽり、と肺から空気が漏れ出して、上へ上へと昇っていった。――初恋、だった。  その晩、わたしが岩に辿り着くと、彼は既にそこに居た。けれど、その姿はゆがんでほとんど見えなかった。そこで初めて自覚した、わたしが涙を流していることに。  わたしは彼に、途切れ途切れに事の顛末を話した。恋心は隠したつもりで。けれど彼は、わたしに腕を伸ばして、優しく頭に触れた。それが、彼と触れた最初で最後だった。そして、彼はそっと問いかける。 「君、王妃になる気はあるかい」 「おう、ひ?」 「王子様のお嫁さん、ってことだよ」 「それって、にんぎょひめ?」 「そうだね」 「……うん、なりたい、なりたかったよ」 「それじゃあ、僕が魔法使いになろう」  すると彼は、指を月にかざすと、ふっと横に振り、何かを掴んだ。そして、わたしの手のひらに乗せる。 「これはね、君のティアラだ。王子様の名前が君のところまで届いたとき、まだ君が夢見る人魚姫だったなら、きっと王子様のところまで導いてくれる。さしずめ、ガラスの靴ってところかな」 「なに、どういうこと」 「大事に持っていたまえ。……どうか、君の未来に、祝福を」  そう言うと彼は、まばたきをする間に消えてしまった。もしかしたら、夢だったのかもしれない。そう思ったけれど、手の中には確かに、ティアラが輝いていた。
 で、「堕落王」とやらの名前を聞いた今、このティアラがこんな反応したってことはつまり。せっかく忘れかけていたのに、なのにまだ、わたしの内側にこんな夢見がちな少女が眠っていただなんて。とんだお笑い草じゃないか。  でも、左薬指のピンクゴールドを見てしまったら、ちょっぴり期待してしまう。  あなたは何者なんだとか、私を喪女にしやがってとか、言いたいことは山ほどある。けれど、どうせなら直接言ってやらなきゃ気が済まない。そう、たとえば、「王妃を迎える準備はできた?」ってね。もし隣に女の子が居たりしたなら、そのときはグーでパンチだ。
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