午前2時の訪問者
前触れ無くベッドが沈んだので、思わずまぶたを開く。すぐ右を見ると、肩に触れそうな距離に、真っ白なコート。何者かがベッドに腰掛けていた。誰か、なんて、分かっているけれど。仰向けの姿勢のまま視線を上にずらせば、銀色の仮面が、間接照明の光をぼんやりと反射させていた。さらり、と肩ま で伸びた髪が流れる。
彼は目を開けた私には驚かず、右手を私の頭の上へと置いた。そして、優しく、ただ撫でる。
そんなことだろうと思ったよ、と。口には出さないが、その動作から感じた。
「無理に眠る必要もなかろう」
「人間には、睡眠が不可欠なのよ」
薄い窓に、雨が吹き付けている。滝にでも打たれているかのような勢いに、訪問者――堕落王フェムトは、口を僅かに曲げた。
「せめてカーテンくらい閉めたまえよ」
「窓、近づくの怖い」
「ふむ」
フェムトは軽く頷くと、右手をそのままに、左手をふいっと動かす。一拍遅れて、カーテンの端が引っ張られるように動き、ぴっちりと隙間なく閉じた。
「部屋は、暗くていいのか」
「じゃないと、眠れないし」
「……ややこしいな君は」
自分でも、そう思う。
特に何があったとかは、覚えていないのだけれど。子供の頃は平気だったはずの雨に、いつの間にか恐怖を覚えるようになり、それが体調や精神状態に現れたのはHLに住み始めてからだった。
へんてこなこの街ではそれでも雇ってくれるところが多いから、生活には困らない、けど。日中はともかく、夜、眠れないことが問題だった。
「いつものことだし、気にしなくていいのに」
「慣れで恐怖が和らぐわけでもなかろう」
「……たかが睡眠で、」
「数分前に自分が発した台詞も忘れたか」
ぐ、と言葉に詰まる。
フェムトと友人になって久しい。これまでも同じようなことが何度もあって、フェムトはその度に欠かさず、私の元へと来てくれた。約束しているわけでもないのに。ただの友人、なのに。
「フェムトって、友達少ないでしょ」
「君に言われたかぁないね」
だって、そうでもなけりゃ、私に構う理由なんてないもの。
ぽん、ぽん、と撫でられるうち、手袋越しの体温が心地よくて、まぶたが自然と下がっていく。それでも私の耳は、嫌でも雨の音を拾ってしまう。微睡みと、不安の、その間。何故だか急に心細くなった。
物足りない。熱が、足りない。
くらくらする頭は渇望に忠実で、欲することをそのまま行動に移す。目の前の細い腰に手を伸ばし――思い切り、ぎゅうと抱きついた。
「わ、」
ベッドのスプリングが軋み、二人分の体重を受け止める。体温を腕の中に閉じ込めた私は、そのまますうっと意識を手放した。
彼女の寝息が落ち着いたのを確認した私は、意外なまでの腕の力に、抜け出すことを諦めた。代わりに、履いたままだった靴を脱ぎ、体と同じようにベッドに横たえた。
「……ただの友人というだけでこんなに足繁く通うものか、馬鹿め」
最初は好奇心のはずだった。たまたま知り合った彼女が、どこまでも普通である彼女が、雨恐怖症という特異点を持つことに、単に興味を持った。それだけであった。ただの友人どころか、ただの観察対象でしかなかった。だった、はずなのだ。
まったくこの世界は、予期せぬことが起こってくれるから面白い。恋心などという、大衆的でありふれた、陳腐な感情を、私が持つなど。
「君はそろそろ、僕の元に堕ちてきてくれてもいいんじゃないかい?」
頬をぷにぷにとつつくと、くすぐったかったのか、わずかに身じろいだ。口元をだらしなくゆるめた、幸せで満ち足りた表情のまま。