オーマイゴッド
物心ついた頃には既に、わたしの側には常に "それ" が居た。なんだかはっきりは見えないけれど、時折こちらに近づいたり、何かを探すようにうろついたりする、犬くらいの大きさの影のような黒いもの。
怪物、とでも言うのだろうか。けれど、わたしに対する害意は感じないから、怪物と呼ぶのも何か違う気がする。呼び名に困ったわたしは、UMA(未確認動物)から取って「ユウマ」と呼んでいた。まあ誰かに話したとこころで信じてくれるような奇特な人はいないから、わたししか呼ばないのだけれど。
ユウマは今日も(おそらく)元気だ。異界と現世が交わる、なんて言われるこの街に何かヒントがあったりしないかと思って来てみたはいいものの、ユウマに犬のような耳が現れたくらいで、他に特に変わった様子はない。そしてやはり、多くの人には見えないらしい。一度だけ、見えてるっぽい男の子を見かけたことがあるけれど、特に気に留められることもなく往来ですれ違っただけだった。まあ仕方ない、見渡す限りの百鬼夜行だし当然のことである。
さて。惰性で数日ほど滞在してみたけれど、わたし自身はごく普通の人間である。危険のパラダイスでこれ以上過ごしたくはない。明日はもう帰ろう、ということで最後の夜を楽しんでいた、そのとき。
「やあお嬢さん、ごきげんよう」
闇の中から、有名人が出てきた。
わたしはアメリカのタレントなんて一人も知らないけれど、この人だけは見覚えがあった。つい昨日、街全体に大掛かりなゲームとやらを仕掛けた張本人だ。ちなみにわたしが帰国しようと思った最大の理由でもある。
その有名人――堕落王フェムトは、ひょいとわたしに近づいて、右手を差し出してきた。
「……えっ、なに」
「握手だよ」
怖い怖い怖い!
あの訳わからん人かどうかも怪しいヤツから握手を求められている。どうして。これは逃げたほうがいいのか、いや逃げきれる自信なんてない。諦めて応じたほうが堅実だろうか。
どうすべきか迷っていると、ユウマがこちらに近づいてきた。ユウマはわたしとフェムトの間に入り込むと、微動だにしなくなった。まさか、守ろうとしてくれているのだろうか。
「ゆ、ユウマ……!」
「ユウマ? なんだいそれは」
「この子の名前です」
「……ははあ、名前を与えられて懐いちゃったのか。道理で」
フェムトがニヤニヤとユウマを見ると、ユウマはふるふると震えた。もしかして照れているのだろうか。
「それで――ああ、君、名前は?」
「コハクです」
「それじゃあ、コハク。ちょっとユウマを貸してくれるかい?」
「ええと、どうしてですか」
「昨日のゲームのときに見かけてね。ユウマとは古い友人なんだ」
さすがに嘘では?
と思ったけれど、ユウマがこちらを伺うような姿勢になっているので、もしかしたら本当なのかもしれない。
「それって、わたしじゃなくてユウマに聞くべきじゃないですかね」
「うん? だって君はユウマの主なんだろう」
「あるじ?」
「違うの?」
当然のように言われても、わたしは何も知らないわけで。
しばし考えたあと、わたしはひとまず自分の身の安全を確保することにした。
「いいですよ、わたしたちに何も危害を加えないなら」
「それは保証しよう。――やあ、久しいじゃないか、ユウマ」
結局、古い友人というのは本当だったようだ。楽しそうに話をしては、わたしの知らない単語で笑いこけていた。人間に聞こえないだけで、ユウマにも声はあるらしい。
あれからわたしは帰国したけれど、なんとたまにフェムトが訪ねて来るようになった。ちゃんと先触れに手紙をくれるあたり、友人は大切にするタイプらしい。でも訪ね方が窓やら鏡やらなのは本当にやめてほしい、単純に怖い。
そしてこれは、後からフェムトに聞いた話なのだが。どうやらユウマは、これでも神様の一種らしい。わたしの周りをうろついていたのは、わたしを守ろうとしてくれていたからだ、とも。
「だいぶくたびれてるけど、生きてるとは思わなかったよ」
そう言ってユウマと楽しそうにじゃれつく姿は、どう見ても犬と遊んでるようにしか見えなかった。
フェムトは、こちらを訪ねる度に「お土産だよ」と言ってユウマを動物の姿に近づけていった。口ができて、毛並みができて、しっぽができて。そこで初めて、わたしはユウマが狐であることを知った。だから、フェムトの訪問が実は少し楽しみだったりもする。――決して、フェムト自身を楽しみにしているわけではない。絶対にだ。そんなことを自分に言い聞かせながら。