欠片の掬い人
十七歳で本部科学班勤務という天才少女。
等身大の人間として扱ってくれるリーバー班長に恋している。
小さい頃から、私は "天才" だった。私が何かをするたびに、みんなが「すごいね」「頭いいね」と口々に言う。褒めてくれるのは、とっても嬉しい。けれど、そう言われるごとに、私の中の何かが奈落の底に落ちていくような感覚がしていた。深くて暗い、見えないところに、自分の欠片が落ちていくような。そしていつかは私の全部が落ち切って、もうそこで目を覚まさなくなってしまうんじゃないか。そんな気がしていた。
――黒の教団、本部科学班に来るまでは。
ハッ、と目を覚ますと、目の前には一面の白。……そう、白。
やばい。がばっと飛び起きて時計を探す。七時、を少し回ったくらい。よかった、そんなに長く気絶していたわけじゃなかったみたいだ。幸い羽ペンはホルダーにきちんと収まっていて、インク瓶も閉められていた。ひとまず、胸を撫で下ろす。
本部科学班に呼ばれて、早いもので二年が経つ。それでも私はまだまだ子どもとして認識されているみたいで、コムイ室長から「定時」が決められていた。私ももう十七歳だというのに、七時半が限度なんて過保護じゃないかと思う。支部のときは睡眠時間が不規則なことなんて日常茶飯事だったし、同い年のリナリーなんてもっと大変じゃないか。
さて、そんなことを言っている場合じゃない。気合を入れ直して、再びペンを持った。
記憶を辿って仕事を再開すると、リーバー班長がこちらに気づいた。ちらりとそれを確認して、目線を手元に戻す。
「起きたか、コハク」
「起きましたよ、班長。っていうか起こしてくれなかったんですか、班長」
「いい寝顔だったぞー」
「子ども扱いやめろって言ってますよね」
むっとして唇を突き出すと、「悪い悪い」と頭をぽんぽんされた。だからそれが子ども扱いだってのに。
言い合いするのも面倒になって無視していると、リーバー班長が机を覗き込んできた。
「それ、時間かかるだろ。疲れてるみたいだし、なんなら明日にして早く上がってもいいぞ」
「大丈夫です、終わりますから」
「さすがの自信だな」
「ふふん、私は天才ですからね!」
得意気に笑って見せると、軽く頭を小突かれた。
リーバー班長は「また迎えに来る」と言い残して、今度こそ自分の机に戻った。
ちょうどきっかり七時半。身支度していると、リーバー班長が迎えに来た。これから夕飯を一緒にして、部屋まで送ってもらうのが恒例だ。
「さっきの、終わったみたいだな。あとで確認しとくな」
「今じゃなくていいんですか?」
「コハクの仕事なら大丈夫だろ」
その自然な口調に、すとん、と自分の中に何かが落ちてくる感覚がした。じわじわと胸のあたりが温かくて、ぼんやりする。
「ほら、行くぞ」
「は、はい」
リーバー班長の声で現実に引き戻された私は、小走りで彼の隣に追いついた。
リーバー班長と一緒に居ると、今みたいなことが、たまに起きる。崩れ落ちてしまったものが掬い上げられて、また元の場所に収まるような。いつか落としてしまった、自分でも忘れてしまった何かを、大切に拾ってくれるような。そんな不思議な感覚。
いつだったか、それをリーバー班長本人に言ったことがあった。リーバー班長は笑ったり馬鹿にしたりせずに、優しく目を細めた。
――そうか。俺は、お前の力になれてるか?
はい、と返事をしたら、リーバー班長は私の頭を撫でてくれた。思えば、彼の子ども扱いが増えたのは、あれからだったかもしれない。
人気のない廊下をリーバー班長と並んで歩いていると、当然ながら身長差で顔が全く見えない。見上げると、整えられた髭が目に入った。いつもの親しみやすさのせいで、なんだか歳の近いお兄ちゃんのような気がしていたけれど、彼は私より随分歳上なのだということを実感してしまう。
「リーバー班長って、いくつでしたっけ」
「ん? 今年で二十八だよ」
「……あれ、未婚でしたよね」
私の言葉に、リーバー班長が勢いよくむせ返った。もしかして禁句だっただろうか。顔を見ようとしてリーバー班長から少し離れると、逆に距離を詰められた。……近い。顔がよく見えない。
「ちょっと班長、わざとでしょ」
「お前こそ、何だよ突然!」
「いやだって、リーバー班長って大人なんだなぁと思って」
「……嫌か?」
リーバー班長は本当に、周りの人をよく見ている。そしてそれは私も例外ではない。
天才少女ともてはやされていた私を、できるだけ対等な仲間として迎え入れてくれた。過度な期待をかけるでもなく、子どもと軽視するでもなく、一人の部下として扱ってくれた。ちょっと人よりできることが多いからって、大人扱いされることに慣れてしまっていた私を、等身大の枠組みに戻そうとしてくれた。
だから私は、子ども扱いが嫌なわけじゃない。ただ、リーバー・ウェンハムという一人の人間からの認識を、子どもから改めてほしいだけだ。私にとってリーバー班長が特別という、ただそれだけなのだ。
「……私だって、もう結婚できる歳ですもん」
強がってそう言うと、リーバー班長は驚いたような声をした。
「まだ十七だろ」
「もう十七なんですーっ。まったく、行き遅れたら貰ってほしいくらいです」
「行き遅れたらでいいのか?」
――えっ。
驚いて、表情が固まった。急に心臓がどきどきしてきて、顔を向けることもできない。遅れて、ぶわっと顔が熱くなる。
本心を冗談に混ぜるのは、得意なつもりだったのに。
「い、いつから、気づいてたん、です、か」
「へ」
言葉を絞り出すと、間抜けな声が降ってきた。恐る恐る見上げると、目を丸くしたリーバー班長がいた。
なんだかわからないが、墓穴を掘ったらしいことだけはわかる。この場から逃げ出したくなって、足を踏み出したところで、腕が掴まれた。ああ、もう逃げられない。せめてもの悪あがきで、顔を下に向ける。走り出す前だったというのに、息が苦しい。
「そういうこと、でいいのか」
「なんで、気づいてたんじゃないんですか」
「あれは……思ってたことがつい口に出たっつーか、願望のつもりだったというか」
ああもう、私は恋愛偏差値が低いんだ。何しろ周りに恋愛対象が誰も居なかった。だから、何もわからない。わからなくて、言葉を自分に都合よく捉えてしまいたくなる。
「私のこと、子ども扱いするのに?」
「……そんなの、とっくに無くなってるよ」
どうして。どうして否定するの。だって、ここまで言われたら、まるで愛の告白みたいじゃないか。
黙ったままの私の前に、リーバー班長は跪いた。私の手を取って、指先に口付ける。映画のワンシーンのように、やけに時間がゆっくりと感じた。
「結婚、するか」
「……まだ行き遅れてないけど、いいんですか」
「俺はいつでもいいよ。今すぐでも、何年先でも」
だめだ、完敗だ。
私のことをこんなに想ってくれる人を、他に知らない。私がこんなに影響を受けた人も、他にいない。初恋が実らないなんて誰が言ったんだろう、と頭の片隅で先人に文句を言った。