カランコエ
先日結婚したばかりの新妻。
いたずら好き。
「リーバーさんっ!」
他に誰も居ない、午後一時の談話室。リーバーが休憩がてら資料に目を通していると、突然、怒声が耳を突き刺した。恐る恐る顔を上げると、そこには先日結婚したばかりの妻であるコハクが、眉を寄せて仁王立ちしていた。不機嫌の見本のような顔のコハクに、リーバーは脳内で必死に心当たりを探した。が、どうしても見当がつかない。
冷や汗をかいていると、コハクはぷっと吹き出し、顔を崩した。
「……コハク」
「ごめんなさい、リーバーさん。お仕事中だった?」
「怒ってるフリはもういいのか?」
「だって、リーバーさんに構ってほしかっただけだもん。リーバーさんの慌てた顔も見られたし、満足!」
そう言って、コハクはリーバーの隣にぽすんと腰を落とした。そのままリーバーの肩にもたれかかる。すかさず、リーバーはコハクの頭に手を伸ばした。
「こいつ~!」
「きゃーっ!」
わしゃわしゃと頭を撫でられたコハクは、「お返しだー!」と勢いよく抱きついた。
正直、リーバーはそういったイタズラの類は好む方ではない。できるなら平穏に暮らしたいタイプの人間だった。しかし、コハクと出会ってしまった。悪意がなく、ただ自分も周りも楽しませたいだけのコハクが可愛くて、いつの間にか人生の伴侶として側に居てほしいと思い始めた。つまり結婚までしてしまったのだ。……人生、何が起こるか分からないものである。
少しだけコハクの体温を堪能したリーバーは、名残り惜しげにゆっくりと腕を解いた。コハクもそっとリーバーの胸から離れる。
「疲れてない? ごはんはもう食べた?」
「ああ……実はまだ食べてないんだよな」
「ふっふっふ、そんなこともあろうかと!」
じゃーん、とコハクは目の前の机に置かれたカゴを示した。布がかかっていて、中身は見えない。全く気づかなかったリーバーは驚いて目を丸くした。
「……いつの間に」
「私がさっき持ってきたの。気づかないなんてよっぽど疲れてたんだねぇ、リーバーさん」
「いや。お前に夢中になると周りが見えなくなるってことがよく分かったよ」
さらっと混ぜられた唐突な惚気に、コハクの頬は赤くなった。照れてしまって、あ、う、と声を発しても言葉にならない。
「そ、んなことより、ほら!」
コハクは強引に話題を戻して、カゴの布を取り払った。
「ジェリー料理長特製! 絶品ミート春巻きだよ!」
カゴの中には、綺麗な狐色の春巻きがぎっしりと詰まっていた。普通の春巻きよりも少し大きめで、食べごたえがありそうだ。斜めに切られた面からはまだ湯気が立っている。食欲を刺激する匂いに、リーバーは目を輝かせた。
「おお……!」
「ジェリーさんにお願いしてね、こんなの作れないかなーって言ってみたらね、作ってくれたの。すっごく美味しそうでしょ」
「コハクが提案してくれたのか?」
「ふふーん、それだけじゃないんだよ」
コハクは端に詰められていた紙の束から一枚を抜き取ると、春巻きを包んで差し出した。
「ほら、こうやって食べれば指も汚れないでしょ?」
にこっと笑って春巻きを差し出され、その魅力にリーバーは唾を飲み込む。たっぷりと数秒悩んでから、食の誘惑に負けて、春巻きにかぶりついた。
パリパリの皮を破ると、具材がとろりと口内に広がる。オイスターソースのコクの中に、ほんのりと生姜の香り。噛みしめると、たっぷりとした豚挽肉の中に、筍や野菜のシャキッとした食感が楽しい。――なるほど、絶品だ。
「……うまい」
「でしょ? 栄養たっぷりだからいっぱい食べてね」
コハクから春巻きを渡されたリーバーは、すぐに二口目を頬張った。コハクはその様子を満足そうに眺めながら、私も、と新たに春巻きを手に取った。
「ご満足いただけましたかな、旦那さま」
「そりゃあもう美味しかったですよ、奥さま」
ちょっぴりおどけて、同時に笑い合う。
空腹だったリーバーによって、カゴの中身はたちまち無くなってしまった。ほんのり顔色が良くなったリーバーを見て、コハクはほっと息をついた。
「よかった。……ねえ、リーバーさん」
「ん?」
「これ、ジェリーさんじゃなくて、実は私が作ったんだよって言ったら、どうする?」
「……えっ」
リーバーが驚いて隣を見ると、コハクはうつむいて顔を背けていた。
「あっ、もちろんジェリーさんに油の温度も見てもらったし、野菜の切り方からしっかり教えてもらったから! 安心して――」
急に体が傾いて、言葉が途切れる。温かなものにぎゅーっと包まれて、コハクはようやくリーバーに抱きしめられたのだと悟った。
「な、なに」
「コハクが可愛かったから」
「えぇ……?」
困惑しているコハクをよそに、リーバーはコハクのこめかみにキスを落とした。
「コハクって、ほんと、魔法使いみたいだよな」
「な、なんで?」
「お前ほど周りを笑顔にできる奴、俺は他に知らないよ」
思えば、コハクと出会う前。リーバーはずっと眉間にシワを寄せていたような気がする。気が休まることがなく、ずっと周りに気を配ってばかりいた。それが、今はどうだ。コハクのおかげで、笑わない日なんてないくらいだ。
少し腕を緩めると、不思議そうに見上げてくるコハクと目が合った。
「俺、知り合いが結婚するたびに『自分は世界一の幸せ者だ』って言うのが不思議だったんだよ。……今、すげーよくわかる」
「リーバーさん、幸せ?」
「ああ。世界一の幸せ者だよ」
優しく額をくっつける――と、急に下から伸びてきた手に頬を挟まれた。ぎょっとする間もなく、ちゅ、と可愛らしい音。
突然のキスに固まっていると、コハクはニッといたずらっ子のような笑みを浮かべた。
「残念でした。世界一の幸せ者は私だよ!」
「――こっの!」
「きゃー!」
リーバーは押し倒す直前で思い留まり、横腹めがけてくすぐりを仕掛けた。