愛しい人
幾千人目かの彼女は、偶然にも "彼女" とかなり似ている外見をしていた。その瞳を目にするたびに、その髪に触れるたびに、忘れかけていた本質を思い出しそうになって、そして性懲りもなく苦しくなった。
この子は、限りなく彼女だ。
けれど、やはり決定的に彼女ではない。
この子と過ごせば過ごすほど、それを痛感してしまう。
そんなことは分かりきっているのに、僕は煩悶しながらも、だらだらとこの子を殺せないままでいた。新婚生活も半年を過ぎて、なんと最長記録更新だ。
来月にはレストランへ行く約束をしていて、あとは行き先を決めるだけ。ソファで隣に座る憎らしいほど愛しい妻が、うきうきしながら店を思い浮かべていた。
「じゃあ、あのお店はどう? 白くてふわふわの……エビチリ?」
彼女の言う店には心当たりがあった。きっとあの店だろう、いつだったか彼女も連れて行ったことがあったかもしれない。
「いいねぇ。そうしようか」
彼女の肩を引き寄せたところで、はたと気づく。――あの店は閉店したのではなかったか、それも随分と前に。"この子" と行ったことは、ない。
すうっ、と熱が引いていく感覚がした。指先がやけに冷たい。やはり、また駄目だったか。きっと彼女も時間の問題だ、判断を間違う前に、早く。
僕は彼女の肩から手を離し、一瞬の隙にナイフを現して――
目が、合った。
何故だか動けなかった。彼女の首元には刃があり、掻き切るだけでその心臓は止まるというのに。早く、早く。焦りは空回るばかりで、真正面から彼女を捉えた僕は、硬直してしまった。
「私も殺されるのね」
まっすぐ僕の目を見つめる彼女は、僕の手元を見ていないにも関わらず、確信を持った声でそう告げた。
「君は……記憶があるんだろう」
「おぼろげに、ですけど」
僕に殺されると理解している。そのはずなのに彼女は、この状況に似合わないほど優しく微笑んでいた。
「何度もあなたに愛されて、何度もあなたに殺された。でも、あなたに殺されなかったことがあるのも、私は知っています」
僕が妻を殺さなかったのは一度だけ。それは、僕が探し続けている〝彼女〟が死んだときだけだった。
――驚いた。あの子の記憶を持った妻は、今までひとりもいなかったのに。
まさか、と一瞬だけ都合のいい結末が頭を過ぎる。が、すぐに自分で打ち消した。
「でも、君はあの子じゃない」
「……否定はしないけど、はい、とも言えません」
「どうして」
「だって、今までもずっとそうだったのよ」
とびきり幸せそうに、柔らかく、彼女は続ける。
「何度生まれ変わっても、何度魂がすり減っても、必ずあなたに恋をした。この気持ちだけは、どんなに私が私じゃなくなっても、ずっとずっと変わらなかった。……それはきっと、この先も絶対に変わらない。だからそんな辛そうな顔しないで」
ナイフを持つ冷たい手が、彼女の温かい手に包まれた。ぐっ、と促すように、刃が彼女の首に食い込む。
「知ってるでしょ? 私、あなたの楽しそうな笑顔に惚れ込んだんだから。ね、笑ってちょうだい。稀代の天才、堕落王のフェムトさん」
ぷちり、と肌が裂けた。
一瞬にして頭が真っ白になって、気づいたら手からナイフを消していた。代わりに彼女の腕を掴み、抱え込むようにして、顔を近づける。
「……ふふ。あなたからキスしてくれたの、初めて」
「よく知ってるじゃないか」
「私はもはや "あの人" じゃないけど、ぜんぶぜんぶ、私だったから」
――そうか。
彼女の言葉を聞いて、ようやく腑に落ちた。彼女たちはみな、あの子だった。それだけの話だった。少なくとも彼女にとっては、最初から。
「君に頼みがある。いいかい」
「なあに、フェムトさん」
目の前にいる愛しい人は、あのときからずっと変わらない笑顔で、僕を見ていた。
「僕の妻になってくれませんか」
彼女は目を見開いたあと、想像通りの笑顔で応えてくれた。