融解
「――コハク?」
えっ。
驚いて、辺りを見回した。誰かに、名前を呼ばれた気がしたんだけど。しかし、知り合いらしき人物は見当たらない。というか、私の知っている人物といえば、フェムトさんとアリギュラちゃんと、その周辺人物くらいだ。ここに、ヘルサレムズ・ロットに居るはずがない。
首を傾げて歩き出そうとしたとき、唐突に思い出した。そういえば私には、フェムト邸に来る以前の記憶がなかったのだった。じゃあ、以前の私を知ってる人? その可能性の方がありえない、だってフェムトさんの幻術を見破れる人なんて、早々いない。
「コハク!」
左腕に、圧迫感。背後から聞こえた声に反応できなくて、暗い恐怖に襲われた。心臓の鼓動が全身に響いて、ぶわっと冷たい汗が染み出る。振り向きたく、ない。
誰か、助けて。
――ぼふっ。強い衝撃を柔らかく受け止めたそれは、しばらくもよんもよんと揺れたあと、私を静かに沈ませた。
さっき。強く目をつむった瞬間、浮遊感に襲われた。そして、今感じている、なめらかな手触り。使い慣れた、シーツの感触だ。
恐る恐る上体を起こして目を開けると、途端に視界は再び暗くなった。でもそれは、安心する、あたたかな暗闇。彼の匂い。
「フェムト、さん」
「おかえり」
何度も聞いたはずのその声は、聞いたことがないくらい、揺れていた。
「助けてくれたんですか」
「そんなんじゃない。僕がしたくて、勝手に転移させただけだよ」
「じゃあやっぱり、見てたんですね」
「……それは」
どうやらフェムトさんは、知っていたらしい。
あのとき名前を呼んだ声は、確かに私の知っている声だった。懐かしいというより、聞き慣れた、すぐ側にあった、毎日のように聞いていた声。どうして今まで思い出さなかったのか、不思議なほど。
尚も私を離さないフェムトさんは、私の肩に顔を埋めたまま。しばらくして、フェムトさんはようやく、絞り出すように言葉を発した。
「君は、知りたいかい」
何が、とは言わないが、言いたいことは伝わった。
「はい」
「僕に、それを止める権利はない」
「そうなんですか?」
「だって、『そう』したのは僕だ」
こんなにも焦っている彼を見るのは初めてだ。レアフェムトさんだ、なんて、呑気なことを頭の片隅で考える。
「じゃあ教えてくださったお礼に、私も教えてあげます」
今度は私が彼の頭を包み込み、落ち着かせるように、ぽん、ぽん、と撫でる。
「私があなたに恋するずっと前から、私はあなたに恋してたんですよ」
だから、安心してください。そう言うとフェムトさんは、甘えるようにゆっくり私にもたれかかり、そのままベッドへ沈んだ。
そうだ、このまま共に眠ってしまおう。柔らかな体温に身を溶かし、私は目に蓋をした。