ラグナロク
……来ない。待ち合わせ時刻を30分は過ぎている。それなのに、フェムトさんが現れない。
いつもなら、10分前に到着する私を出迎えてくれるのに。何かあったのだろうか、そう思って連絡を入れて、既読が付かずに15分経過してしまった。
フェムトさんは最近、どこか上の空だった。もしかしたら、それが関係しているのかもしれない。何か力になれれば、とも思う。けれど、彼ほどの人が悩むことだ、きっと私にはどうすることもできないだろう。
とにかく連絡がとれないか、とスマホを握り締めると、突然それが震えた。うわ、と驚いて落としそうになるのをどうにか捕まえる。画面を見ると、「アリギュラ」の文字が表示された。そうか、彼女がいた。
「もしもし、アリギュラちゃん、あの」
「はいはい~分かってるわよ~」
いつもと変わらぬ彼女の呑気な声に、少し冷静さが戻る。何か、知っているのだろうか。
「フェムトさん、どうしたんですか」
「まあね~。でもまだ秘密~」
事情を知っているどころか、一枚噛んでいるような言い草だ。ひとまず、フェムトさんの身に危険が迫っているわけではないらしいので、一安心かな。と、肩の力を抜いた、そのとき。
『レディィース! エェーン! ジェントルメェェェーン!』
マイクを通した大きな声に、ばっ、と顔を上げる。視線の先には、気球に乗った――
『やあやあ、今日も無駄に生産的な時間を過ごしているかい? みんなお待ちかねの、堕落王フェムトだよ!』
「な、」
彼の登場により、周りが一気に騒然とする。うわまたかよ、ヒューやれやれ、等々。好き勝手上がる歓声を無視して、彼は続ける。
『今日は鬼ごっこをしよう! ルールは簡単。標的に人類をひとり決め、僕が追いかける。捕まえられたら、僕の勝ち。逆に、僕が何らかの方法で捕らえられたら、その時点で君たちの勝ちだ。制限時間は30分。ただ、これだけじゃあつまらないからね』
一度切って、おもむろに。
『もしその標的が僕に捕まったら、人間を卒業してもらおう』
凄みを出そうとしているその声に、寂しさを感じてしまったのは、きっと私だけ。
スタートの掛け声とともに、派手に花火が上がった。
『さあ、標的は――君だ』
あんな人類かどうかも怪しいのを心配していた私が馬鹿だった。今現在、身に危険が迫っているのは、私の方だ。
『で? 君がロックオンされてるって?』
「そうなんですどうしましょう」
『あー……そうだな。いい機会だし、人間やめてみたらどうだい』
「スティーブンさん!」
事態は深刻なんですよ、とひそひそ声でスマホへ話しかける。
実は、ライブラにはフェムトさんとの関係を話してある。どうせバレるだろうから。ライブラの怖さは、内部に居る私が一番わかっている。でもそれは、裏を返せば、これ以上心強い味方はいないということで。だからきっと、助けてくれると思ったのに。
スティーブンさんの声は疲れきっていて、面倒事はできるだけ避けたいという意志が、ひしひしと伝わってきた。
『念のため、堕落王はザップとツェッドにマークさせてるよ。まあでも、おそらく君には危害を加えないだろうからな。大丈夫だろう』
「なんでそう言い切れるんですか」
『今回のゲームで、彼らしくない点がいくつかあるんだよ。分かるかい』
「……フェムトさんが民衆の前に直接姿を現すのは、珍しいと思いますけど」
『それだよ。つまり、今回のゲームは完全に、彼のコントロール下にある』
だから、人間やめるかどうかは別として、「身内」である私に「命の危険」はない、と。そういうわけですか。
『だいたい今回の事件は、堕落王フェムトが痺れを切らして起こしたんじゃないのかい』
「なんですかそれ」
『だから、推測するに――』
バキッ。
突然不穏な音がしたので、慌てて手を離した。地面に落ちたスマホは、中央が派手にへこんでいる。ピリピリと放電する様子を見るに、これは。
「K・Kさん!」
「もーアイツ、ほんっと分かってないんだから!」
唇を突き出しているところもお美しいK・Kさんは、私の隣に腰掛けた。
「来てくれてありがとうございます、ほんと、どうなることかと」
「やぁねえ、まだアンタを死なせるわけにはいかないのよコッチは。街を監視する重要な "目" なんだから」
「いつもなら謙遜するところですが、今回ばかりはありがたいです」
「そういう素直なトコも好きよ、コハクっち」
そんなことよりも、今はフェムトさんだ。残念ながら、時間はまだ半分近く残っている。どうにかして逃げ切るか、もしくは。
遠くから爆発音が聞こえる。続いて、地響き。彼は、周りの障害物を手当たり次第破壊しているようだ。きっと、逃げ場をなくすため。その音が、近づいてきている、気がする。
「あのね、コハクっち」
K・Kさんが、銃を抱え直す。
「はい」
「アタシ、コハクっちなら、堕落王を捕まえられると思うの」
「……無茶言わないでください」
「あら、本当に無茶かしら?」
紅を引いた唇が、綺麗に弧を描く。分かっているはずよ、と、言われた気がした。
「でも、どうすれば」
「きっとどうにかなるわよ」
「そんな、」
私の言葉を切るように、K・Kさんは私の頭をそっと撫でる。
「答えは、アンタとアイツの二人で出してきなさいな」
フェムトさん、とその名を呼べば、彼はこちらに振り向いた。
「おや、もう諦めたのかい」
「そう見えますか」
瓦礫の上に立つフェムトさんは、どこからどう見ても「堕落王フェムト」だった。
「その言い回しだと、捕まる気はないらしいな」
私は無言で口角を上げた。
正面から見上げたフェムトさんは、堕落王だけれど。それでもやはり、私には「フェムトさん」に見えた。
作戦は考えてきた。こんな理屈、通用するか分からない。捕まえられるかなんて、もっと分からない。けれど、胸から溢れてしまいそうなこの感情が、きっとそれで正しいと言っているのだ。
だから、これは、賭けだ。
「でもね、フェムトさん、知らないでしょう。この勝負、最初からあなたの負けなんですよ」
口をすぼめる仕草。不可解に思っている。
「あなたは珍しいことに、いくつか見落としをしました」
「見落とし?」
「ひとつは、ルール説明の際、『何』を捕まえるか、指定していなかったこと。だから、その部分は好きに解釈できる。でしょう?」
腕を組んだ。余裕ぶっているが、実は動揺している。
「もしもそれが、『心』だったら。あなたは、私を時間制限以内に捕まえることなんてできっこないんです」
「どういうことだい」
僅かに頬に力が入ってる。動揺が大きくなった。
「だって私の心は、ゲームが始まる前からずっと、フェムトさんに奪われてましたから」
――既に奪われているものを再び奪うことなんて、この堕落王にも不可能だ。
「チェックメイトです。……フェムトさん、私に、捕まえられてくれませんか」
フェムトさんは顔を手で覆うと、天を仰ぎ、一気に脱力した。隣に腰掛ければ、頭を私の肩に預けてきた。
「なんだ、僕の苦労は空回りか」
「苦労、してくれたんですね。嬉しいです」
「……君、僕のこと、かなり好きだろう」
「ええ。少なくとも、仕草だけで気持ちが分かる程度には」
「台無しじゃないか、君を力尽くで手に入れるつもりだったのに!」
「それは残念です。フェムトさんの一生懸命なとこ、見てみたかったです」
肩が大きく動いて、はーあ、と深くため息を付いて。
「降参だ。僕の心を、君にやろう」
つぶやくように発せられたその言葉で、ゲームは終了となった。